階のビュティ・パーラーの髪の焼ける臭気と、鏝《こて》のかみあう響と、シャンプする水の流れる音に交錯した。
 三階のマネキンの事務所では、競馬馬のような女の舞台女優気どりの饒舌《じょうぜつ》がきこえてきた。衣裳をつけぬ女がけあいどりのように騒ぎまわっていた。このポール商会を太田ミサコの夫が事務服をつけて急がしそうに右往左往した。午前十時であった。
 ミサコはポール商会のまえで車がとまったとき、カリタに隣家のとざされた商店の買収のことを話していた。彼女が店につかつかと入ると同時にミサコの金属のかちあうような鋭い声がきこえた。
「ちぇ、なんだい、マネキンは窓の外を男さえ通ればそわそわしているし、陳列棚についたお前さんたちの白粉《おしろい》の粉が、お前さんたちを淫売《いんばい》とでもおもわすよ。まあ! あなた。その風態は何よ。もっと、紳士的に、もっと、威厳をもって、まあ、この人は髭《ひげ》をそるのを忘れたわ、ああ妾、死にたい!」
 恐る恐る、彼女の夫が云った。
「お前、さっきから隣の地主が奥の部屋で待ってるよ。ところでお前、お前こそ唇に食事のあとがついてるじゃないか。」
 彼女の顔が廃艦のような色にかわると、ポール商会に金属的な悲鳴が聞こえた。
「馬鹿、うすのろ、妾を侮辱したね、妾のプライドをきずつけたんだ。ああ、口惜しい。」
 ミサコの馬の脚のような涙に驚愕《きょうがく》して、彼女の夫は帽子をつかむと街路に逃げだした。うすい唇に白い歯をうかべてカリタが云った。
「ミサコさん、あなたが泣くと僕はあなたという人がどんなに正直な美しい心を持った女であるか分るんだ。僕は英国女のようにもの堅いあなたを尊敬しているんです。」
 彼女が泣くのをよして、お化粧を一きわ濃く塗りながら、
「彼《あ》の人は妾にいつも恥をかかすのです、彼の人が愚鈍《ぐどん》なために、妾は、妾が良妻であるにもかかわらず世間から誤解をまねくようなことになるんだわ。」
 ミサコが堅固な意志をとりかえすと、ふたたびポール商会は、事務と秩序と美にたいする感覚をとりかえして、使傭人《しようにん》たちが忙しそうに饒舌《しゃべ》り、お世辞と商才が火華のように顧客を魅了した。

     6

「この方は妾の顧問弁護士でございます。」
 カリタをかえりみて彼女が相手の痩《や》せた男に云った。
「妾はいつも間違いのないようにお取引を致しますかわりに、それだけに、駈引のある商人的なお取引はいやなのでございます。それに妾は女でございますから、お話しがむつかしくなりますと手を引くより外に道がございません。では、三マルとして手を打っていただきとうございます。妾は女でございますもの、それなのにあなた様の土地は無力な妾がつねから欲しいと思った土地なんでございます。三マルでおゆずりくださいませ。いつまでもご恩にきますわ。」
 痩せた老年の男が憤怒のために立あがった。
「いまになって三マルとはひどいではないか。昨日まであんたは四マル半ぐらいなら妾がいただくから他には話さないでくれと狂気のようになってわしにたのんだ。わしはあんたを信じた。あんたは、わしが今日限り抵当ながれにならなくてはならないわしの土地についてはよく承知なんだ。」
「妾残念に存じます。妾の無力をわたしは悲しく存じますわ。」
「あんたはわしを死ぬような目にあわしなすった。」
「どうか、妾を悪い女にしないでください。あなたのお顔を見ていると、妾はいまになってどうしていいか分らなくなってしまったのです。」
「万事休す。わしはだまされた。」
 影を失った、老いた男を横目で見ながらミサコは右肩をかるくゆすった。生真面目《きまじめ》な顔をしたカリタが彼にむかって、
「お気の毒に存じます。しかし何分相手が女だものですから、あさはかにも欲しい一念から堅い口をききましたのでしょう。それでは抵当権はそのまま当方に引うけることに致しましょう。値違い八千円をもってお取引いたすことにしまして、私が代理人としてこれから登記所へまいります。」
 ミサコは二人を送りだすと、暈《めまい》を感じたが、そのまま都会の火事の騒音のなかに巻きこまれてしまった。
 ふたたび、都会がパノラマのように彼女の眼前に展《ひら》けてきた。それとともに彼女は夫の真剣な看護を意識した。
「おい、どうしたのだ。」
「妾、どのくらい寝ていて。」
「いまさっき、アタゴ山のサイレンが鳴ったよ。」
「すると正午だわね。」
「そうだよ、おまえどうかしていない。」
 ミサコはいまさらのように善良な夫を見つめていたが、
「あなた、ナナコはまだ学校を引けないわね。」
「あのおてんばのことは、どうも、俺には分らないよ。」
「ねえ、あなた。妾はいいママだわねえ。」
「あの娘にとって、お前はいいママかも知れないよ。」と、彼
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