女の夫がこたえた。
ミサコの二枚の唇が白昼のテーターテイトのなかで溺《おぼ》れた。
「妾はナナコにたいして厳格な精神をもっているわ。でも妾は眼のまわるように忙しいのよ。妾があの土地を買収したのも、妾はこの土地にポール商会のビルデングを建てるつもりなのよ。それについて妾は二重にも、三重にも金策をしなくてはならない破目になっているのよ。あなた、分って。妾が流行界の女王になったらあなたどうするつもり? あんたやはりまえと同じように悠悠《ゆうゆう》としているの、妾それをかんがえるとなさけなくなるわ。妾のバッグにいま現金が一万円あるのよ。あなた、この金をこの月一杯で一万五千円にすることはできない。あなたがそんなに徐々《じょじょ》な人だから、妾は一刻だってじっとしていることはできないわ。妾をとりまく事業と、企画とナナコと、妾の善良な夫のために妾はどんなことでもしてのけるわ。」
ミサコは歳入のたらない夫の沈黙からはなれると、階下に彼女をおとずれた人々に居留守をつかって裏口から銀座にあらわれた。
7
太田ミサコにとって市街は相場の高低表であった。しかし彼女にとってこの街は無意味なものの羅列《られつ》に過ぎなかった。有閑者がこの街を自分の調査機関のようにたえまなく往来して、記憶をタイプライターで刷りあげると、不生産的な、非社会的な報告書しかつくれないような愚な街であった。
だが、彼女がオワリ町の十字路までやってくると、中央の「ゴー」「ストップ」と書かれた赤い建札の廻転がはじめて意識的なものを彼女に感じさすことができた。ミサコがスキヤ橋の方向に顔をむけるとふたたび生きた記録に彼女は接した。A新聞社の電気告知の綴文字が事件をたえまなく運搬した。
『ホンジツヲモツテキンユシユツハカイキンサレマシタ。』
『センダガヤノシヨウジヨゴロシノハンニンケンキヨサレマシタ。』
『ゾウワイジケンノタメシユウヨウチユウノ××ハフキソトケツテイシマシタ。』
『セイユウカイハツイニカイサンカイヒウンドウヲステテカンブカイハ、ウンヌン。』
伝書鳩がまた新しい事件をもって新聞社の楼上にまい下りた。ラジオの経済通報が全市にひびきわたった。ミサコは通りがかりのタクシーに乗るとカブト町に向って車を疾走さしていた。
東株ビルデングの石造の大建築が、人物をザンバのように呑みこんでいた。数百の受話器が仲買人たちの耳に瞬間に数千の符牒《ふちょう》を発した。踏むものが一巡するごとに、人々がなだれをうって台場台場をうずめた。そのたびに、黒いつめえりをつけた行員が矢のように場内を馳せまわった。
太田ミサコは売あびせのために底値を入れた××新株の反撥を予想して買いあつめると、雑株安をねらって、引たたぬ××百貨店株を後場引値《ごばひけね》で、これを指名人に買わすとさっさと場内を引あげた。強弱の火華を消して無念無想の境地をもとめて人々が四散した。
8
白いカラーをつけた、黒奴《ニグロ》のジャズ・シンガーが高層から拡声器に厚い唇をあてて流行歌を唱いだした。都会に宵暗《よいやみ》がせまって、満艦飾をした女がタクシーを盛り場にとめると、貴婦人気どりで歩道を行ったり来たりした。地下室の踊場では、タキシードの男と、夜会服から黄色い腕をだした踊子とが胸と胸の国境をデリケートな交錯で色どりながら踊った。
ポール流行品商会の二階の美容室では、太田ミサコが弟子にからだ中に花粉をはたかせていた。ひる間商品窓に飾ってあった、マルセーユの歌劇女のきるような華美な衣裳をつけて、白い羽根のついた黒い帽子を目深《まぶか》にかぶり、ネロリ油の強烈な蠱惑《こわく》的な香をさしてサーカスの女のようなミサコは高慢な夜を感じていた。
夜の界わいを、極度に断截された近代娘《モダンガール》たちが、短いスカートと男のような乳房と新しい恋愛教科書によった独立の精神をもった彼女たちが、キャバレットとバーと夜の百貨店へくりだした。ホワイトマンによって教練された女達のなかにまじって、十九世紀の万国旗に包まれた太田ミサコが船出する。
一刻後、東京劇場の中央の位置に人々は彼女を見出だした。幕間になると彼女は放蕩親爺《ほうとうおやじ》の好色眼と若い男たちの漫然とした不可解な顔と、理智的な侮蔑《ぶべつ》のなかをクジャクのように満開して、奈落から通ずる楽屋へ座頭のヤマジ・マツノスケを訪ねた。マツノスケは彼女を見ると番頭を遠ざけてから云った。
「やあ、奥さん。驚くべき美しさですなあ。あんたはいつでも僕に女性にたいする懐疑を棄てさせますよ。」
ミサコはオペラ・バッグから祝儀袋をだすと彼にわたしながら、
「妾はあんたのお世辞をきくともう夢中になってしまっているのよ。しかし妾は宣伝はわすれないわ。幕間はあんた、場内の視
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