もしないで見詰めていたのです。遂に一本の尖剣が発止《はっし》と頸骨《けいこつ》の髄を貫いて、牛は地響をたてて倒れました。同時に、私は側で、恋人が気を失っているのに気がついたのです。そして妾は、佐野が心の内部で見えない未来の敵に対して戦端を開いているのに気がつきました。妾は恐ろしい雑沓《ざっとう》の中で、不吉な予感をその時感じたのです。
 妾達がホテルに帰ると、妾の部屋で支配人と旅疲れのしたロダンさんが、妾の帰るのを待っていました。
 そこで妾は、巴里のロダンさんのアトリエで、モデルになることを承諾したのです。

     バルザックの寝巻姿

 数ヶ月後、妾達の東洋曲芸団の一行は、巴里のゲエテ街にいました。モンマルトルは相も変わらず放縦《ほうじゅう》な展覧会が開催されて、黒い山高帽の群とメランコリックな造花の女が、右往左往していました。妾達の小屋はセエヌ左岸のアルマの橋を渡ったところに、日本画の万灯に飾られて、富士山や田園の書割《かきわり》にかこまれて、賑かにメリンスの友禅の魅力を場末の巴里《パリ》人に挨拶していたのです。妾はスペインでロダンさんに約束したことは兎角《とかく》流れ勝だったのですが、ジョージ・佐野はそれについてとらえ難い不安に襲われていたようです。妾達の列車が巴里盆地にさしかかると、佐野は何の理由もなしに、巴里を極度に嫌がって、バルセロナを懐しがったりして、女のように神経質になっていました。そんな訳で、妾達の愛情はひどく病的になって行ったのですが、妾の佐野に対する愛に変りはありませんでした。
 或日、ゲエテ街の安宿に、ロダンさんのお迎えの車がやって来て、妾はオテル・ド・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンのアトリエに連れて行かれました。妾が出てゆく時佐野はふさぎの虫にとりつかれていたようですが、妾が車に乗ると窓から恐ろしい眼をして、じっと私を睨んでいました。有名なオテル・ド・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンの歴史的建築物の薔薇の花の絡んだ鉄柵の小門を潜って、右手の階下のロダンさんのアトリエに妾は案内されました。部屋は大理石像の一群に囲まれて、ロダンさんは秘書のマハセル・チレル公爵夫人と、何かお仕事をしていらっしゃいましたが、その公爵夫人が部屋からお去りになるとロダンさんは壮年のような若々しさを以て、妾の小さい肉体を、あの頑健な腕で抱えて
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