った闘牛士も目には映りませんでした。妾達はスペイン人の巻舌の中で、真赤な衣裳の影で、恋愛のために歓声をあげたのです。この時代が妾にとって最も楽しかった時代で、佐野に対する妾の愛着は南欧の情熱に反映して、ジプシー女のように燃えさかったのです。ああ、妾は佐野を愛していました。佐野も妾のために夢中だったのです。妾達はショコラ酒を飲んで、金盞花《きんせんか》の花と共に寝床に埋れました。
それはスペインの十月の最後の金曜日でした。妾は佐野の腕に抱かれてラス・コルテス通のアラビア風の建物に、赤と黄の旗の飜《ひるがえ》る闘牛場に這入って行きました。場内は気が狂ったように男女が歓声をあげていました。佐野はアラゴン人の物売りから冷果を買って妾の乾いた唇を潤しながら云うのでした。
「|小さい花子《プチト・アナコ》。俺はお前を愛している。お前なしには生きて行かれない!」
妾は彼の厚い唇に敏捷《びんしょう》に噛みつきながら、
「ジョージ、妾の愛の凡《すべ》てを投げ出しても惜しくない。恋の狢《むじな》になるまでは。」
と、妾は号《さけ》ぶのでした。
鐘がバルセロナの古い歴史を呼びさますようにえんえんと鳴る。オーケストラが大進軍の曲を始めた。バルセロナの市長夫妻が、古風なスペイン服で高い桟敷《さじき》につくと、金と紅で美装した闘牛士の群が騎馬で出て来て、司会者の前で昔ながらの武士的な挨拶をするのです。すると、司会者は黄金色と紅色で飾られた闘牛の魂とも云うべき鍵を、闘牛士に向って投げます。すると闘牛士の大きな帽子が見事にそれを受けとめて、その鍵で中の潜んでいる扉を開くと、暗い場所から嵐のように闘牛が広々とした円舞場に踊り出るのです。それに向って槍を手にした騎馬の闘士が焔《ほのお》のような空気の中で乱舞するのです。と、忽《たちま》ち血みどろになって大牛の死骸が投げ出され、騎士と牛の闘争が終ると、左手に赤い蔽布《ひふ》をひるがえし、右手に尖剣《せんけん》をきらめかした闘牛士が徒歩で牛と立向い、古武士的な闘牛士の動作を観衆は讚美熱狂するのです。私は残虐な血を見て、喜びがスペインの奔流のような歓呼の中で亢奮していました。佐野の私の首を抱いた腕がだんだん冷たくなるような気がしながら、眼前を尖光のように流れる闘牛士の槍先が牛の骨に数本の尖創を作って、巨大な口から粘った血液がどろどろと流れるのを、瞬き
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