お》れているのを見て、一座の日本女優の松子がそれと察して、ジョージ・佐野が、今日は珍らしくはしゃいで好きな場末の流行歌などを歌ってふざけていたなどと、妾に告げて呉れました。楽屋の窓から沿岸に打寄せる瑪瑙《めのう》の切断層のような波に、地中海の死んだ魚の腹が夕暮の太陽に赤く光るのが見えました。妾は急いで佐野の楽屋に這入ってみると、彼は武士姿《さむらいすがた》に扮して、鏡の前で人形のように白粉《おしろい》を真白に塗っていたのが、妾を認めると、不意にからからと空虚な笑声をたてて妾に近寄ってくるのです。妾が薄気味悪がって逃げ出そうとすると、急に妾を抱えて嫌がるのもきかないで妾に接吻しました。息詰まるような長い接吻を終えると、彼は絶望的な声を挙げて妾を突きとばしたのです。
 開幕のベルが鳴って武士芝居《さむらいしばい》が始まりました。妾は長袖の友禅を着た日本の娘姿で舞台に出ると、最初に観客席のロダンさんの顔が映りました。筋は外人の喜びそうな有りふれたもので、若い武士が変心した恋人を殺すっていうような義理と人情の絡まったお芝居だったのです。劇の調子が高まって妾の情人の哀切な心を表した舞姿に異国人が海の彼方の歌劇的な情味《じょうみ》を感じた時、若い武士になった佐野が舞台に現れました。これは美しい夢の絵巻、フォーレのシチリアの女のような東洋の可憐な乙女が古い楽園のために、恋人を捨てねばならない。死骸のように疲れた佐野の衣裳に殺気が漲《みなぎ》っています。銅像のように黙した男の呼吸が、妾の踊り姿に蜘蛛《くも》のように絡るのです。それから彼の血を吐くような哀々《あいあい》の台詞が妾の心臓にサイレンのようにひびいて、妾は佐野の為に殉教者のような気持になるのでした。沈思《ちんし》な一心がすぎると妾は心臓から心臓にかけられた剣の橋を渡っていることを知りました。ふと妾がロダンさんの座席を見ると、ロダンさんが色を失って席から立上ると、両手をあげて舞台に向い、立騒ぐ観衆をかき分けて近づいていらっしゃるのです。妾は朦朧《もうろう》とした意志に危険を直覚して、ふと佐野を見ると血の附いた刀を持って茫然と突立っていました。同時に妾は温かいものが肩から乳房にかけて洪水のように流れかかるのを感じました。妾は恐怖のために大声を挙げて叫びました。そして妾は佐野の許しを乞うような一瞥《いちべつ》を意識して舞台に倒れ
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