継続という考えで攻究する。西洋の哲学に関係なきものは哲学でないかのごとき考えを抱く。ここに方法論として非常にまちがいがあると思う。いったい、西洋の哲学者がギリシヤ以来の哲学のみを哲学として考えたのがまちがいである。インドだの支那の哲学も考慮に入れなければならぬ。そこでショーペンハウエル、エドワルト・フォン・ハルトマン、ニイチェ、ドイッセンのごときは、よほど東洋哲学を考慮に入れたものである。殊にドイッセンのごときは主として東洋哲学を攻究し、その価値を発揮することに努めたのである。ところが、わが日本は東洋の国でそして多大に支那およびインドの哲学の影響を受けているのにもかかわらず、支那およびインドの哲学を度外視し、無視し、知らざる真似して、単に西洋哲学の延長として、その系統にのみ属する考えでゆくのはこれはたして東洋人として公平なる立場であろうか、どうであろうか。方法論として、その当を得たものであろうか。自分はけっしてそうは思わない。
 人によっては、よく東洋の哲学を研究しないで、東洋の哲学は単に考古学的、文献学的の価値よりほかにないとしてかえりみないようであるが、それはよく東洋哲学を研究せざ
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