は善が悪に打ち勝って純然たる善の時代となった時をいうのである。これを純善の時代と名づけたならばよかろう。このカントの純善の時代がすなわち理想教または倫理教の時代である。自分は仏教に対しても多大の興味を有しており、その影響を受けたこともまた少なくない。またクリスト教の道徳思想に対しても崇敬の念を抱いている。であるから、すべての点において、仏教に対してもクリスト教に対してもけっして反対ではない。しかしながら、全体からいうと、純然たる仏教徒でもなければまた純然たるクリスト教徒でもない。哲学上から見て、一般的普遍的宗教の立場にあるのである。それで仏教といわず、クリスト教といわず、その他いかなる宗教といわず、すべて理想教たる倫理教の趣旨に合する点はこれを信ずるけれど、多大の迷信を伴っているところの過去の遺物は全然これを排斥するのである。神道はもとよりわが国の民族教であるけれども、一面これを純粋化し、深刻化し、広大化し、真に最後の倫理的理想教たらしむることは果してできないであろうか。これ今後の研究に属する問題である。
 いったい、倫理と宗教と、かように人を律する二種のものが併立しているのは、過渡時
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