みるも、平等的方面がある。すべての現象は活動的のものである。こうみても複雑なる差別的方面のあるとともに、単純なる平等的の方面を否定するわけにいかぬ。現象と実在とは同一物の両方面で、事実上においてはけっして分離されているものでなく、現象は実在とともにあり、実在は現象を透してあり、現象は実在を離れてあるものでなく、現象のあるところに実在があり、実在のあるところに現象がある。それであるのに現象の彼岸に実在があるように説くのは、人をして世界の真相を誤解せしむる所以《ゆえん》である。また実在を認めないで、現象をもって実在となし、現象以外に実在なしとするのは俗見であって、哲学的の見地から見て甚だ幼稚なものである。それでこの第三の実在論の立場は現象と実在というこの二つの対立を超上してすなわち aufheben して、真実一元観に達する次第で、これを円融相即の見解というべきである。
科学的進化論のごときは、われわれもこれを真理と見るけれど、これによって哲学の全体を蔽うわけにいかない。というのは科学的進化論はただ現象界のことにのみとどまる。そもそも進化はまず動的状態を予想して初めて説くべきであるから、哲学は進化以上の根本原理にさかのぼらなければならぬ。この第三の融合的実在論は実在論として終極のもので、どうしても実在論というものは、畢竟ここに至らなければならないのである。ところが、カントでさえもやはり現象を実在の彼岸に在りしとして、現象界にのみ応用さるべき空間の図式を、現象界の彼岸に応用して実在を多数と見て(Dinge an sich)分量の範疇をこれに応用したことは、たしかに矛盾といわなければならぬ。現象は活動的のものであるが、活動的のものはただ活動ではなくして、必ず法則的に活動せざるを得ない。法則的に活動するよりほか、活動は可能でない。その法則的という方面は永久不変のもので、すなわち常住的のもので、そこに古今にわたり、東西に通じて、一定した方面がある。これが根本原理で、すなわち絶対というべきものである。この根本原理は静止的のものである、これがすなわち実在である。実在は静的であり、現象は動的である。その動的の方面を現象とし、静的の方面を実在とするので、動静不二、両者は全然同一体の両方面に過ぎないのであるが、思想家によっては単に動のみを力説する人がある。クローチェのごときは絶対運動と
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