のほか、世間においては外来のクリスト教の宣教師およびクリスト教信者の教師ならびにこれらの薫陶《くんとう》を受けたる内地の牧師らの刺戟もまた哲学思想発生に無関係でなかったように思う。
二
明治の哲学、広くいえば明治の思想の潮流を回顧してみると、少なくとも三つの段階に分かちてこれを考えることが便利のように思う。第一期は明治の初年から明治二十三年までとし、第二期は明治二十三年から日露戦争の終りまで、すなわち明治三十八年までとすることにしよう。それから明治三十八年から以後明治四十五年までを第三期としたならばよかろうと思う。もっとも第三期の思想の潮流は大正年間まで(すなわち世界大戦まで)及んでいることはいうまでもない。明治の初年から明治二十三年までに至るこの第一期の哲学を中心としたる思想の潮流はだいたいアウフクレールングスツァイトで、英、米、仏の思想が優勢を占めておった。単に優勢というくらいでなく、澎湃として洪水のごとく侵入してきた。すなわち英、米の自由独立の思想、フランスの自由民権の思想などというものが縦横に交叉して紹介され、主張され、唱道され、宣伝され、なかなか広く社会に渦を巻くような状態となってきたのである。英、米の学者では主としてベンサム、ミル、スペンサー、シジュウィック、リュイス、バショー、バックル、ラバック。フランスの学者では主としてルソー、モンテスキュー、ギゾー、コント、トクヴィールというような人の思想が輸入され、そして自然科学の側ではダーウィン、ハクスレー、チンダールらの思想がずいぶんもてはやされ、だいぶ社会の状勢も一般的に変化をもたらしたのである。
しかしそのために知識、学問、教育、美術、文学、いずれも急速の進歩をなしたのである。しかれども伝統的の道徳だの、宗教だのはよほどひどく破壊されて、これに代るものがなく、善悪正邪の巷において迷児《まいご》となる者が多く、社会的の欠陥もまたけっして少なくなかったのである。憲法は明治二十三年二月十一日の紀元節をもって発布され、立憲政体もいよいよここに確立され、その翌年、帝国議会も開催され、多年にわたる国民的要求もよほど充たされることになったのであるけれども、ただ国民の道徳的風儀の一点においては遺憾の点がはなはだ多かったところからして、明治二十三年十月三十日をもって教育勅語が煥発されるようになった次第で
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