存しておったのである。仏教は宗教であると同時にまた哲学である。もっとも仏教は維新の際、排仏毀釈《はいぶつきしゃく》の影響を受けてよほど打撃は受けていたけれども、それでも有力な人がそれぞれその範囲において活躍しておったのである。たとえば福田|行誡《ぎょうかい》、原坦山、島地黙雷、南条文雄、村上|専精《せんじょう》、森田悟由、釈雲照、勝峯大徹、織田得能らのごとき、これらの人々は輦轂《れんこく》のもとに勢力を有しておった。地方には今北洪川、西有穆山《にしありぼくざん》、由利滴水、橋本峩山、新井日薩、七里恒順、などという人々がおった。それから居士として島田蕃根だの、大内|青巒《せいらん》だの、鳥尾得庵だのみな仏教の側の人々であった。殊に仏教の側の人で西洋哲学を研究した人ならばなおさら関係が深いわけである。それから儒教は今日ではよほど衰えてその代表者といわれる人はきわめて少数であるが、明治の初年にはまだ相当に碩学《せきがく》がおったのである。安井息軒、元田東野、重野成斎、川田甕江、大槻磐渓、鷲津毅堂、岡松甕谷、阪谷朗廬、根本通明、竹添井々、島田篁邨、三島中洲などもおったが、その他幾多相当の儒者が生存しておったから直接間接種々思想問題にも関係があった次第である。そうしてその間に川合清丸のように神儒仏三教一致の立場から立論する者もあって思想界もそう単純ではなかった。しかしそれから時勢が次第に変ってきたので、研究の仕方、また考究の仕方が変らなければならないので、すべて時とともに面目があらたまってきたのである。しかし明治の初年はそういう有様であったから今日とだいぶ境遇のちがっておったことを考えんければならぬのである。
 それからしても一つここに注意すべきことは外国人の関係である。明治十年に東京大学が創設されるに当って哲学の学科も出来、いくばくもなく欧米より専門学者を招聘して哲学の講義を依頼することになったのである。それで、明治十一年八月には米国よりハーバード大学出身のフェノロッサ(Fenollosa)を哲学の教師として招聘いたしたのである。これについで英国よりクーペル(Cooper)を招聘し、ついでまたドイツよりブッセ(Busse)を招聘し、ブッセの後任者としてケーベル(Koeber)を招聘したのであるから、これらはいずれも考慮の中に加えなければならないのである。かかる哲学専門の教師
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