はどうしても度外視することのできない人物であるが、福沢氏の方はそういう専門的の意味からでなく、広汎なる立場から見て、どうしても見逃すことのできないものがあるのである。殊に英、米の文明思想を率先して輸入し、これに反して儒教のような東洋思想を破壊することを努力した人である。いいかえてみれば、支那文明のような当時なお相当勢力を有しておったものを全然根柢からくつがえしてこれに代うるに英、米の新文明をもってしようと努力したのである。時勢も時勢で、ちょうど攘夷の非なることを覚《さと》って一日も早く西洋の長所を学ぼうという社会的要求の切なる際であったからして、福沢の苦心もむなしからず、その効果は意外に洪大となった。昔から「智恵アリトイエドモ勢イニ乗ズルニシカズ」ということがあるが、福沢はよく時の勢いに乗じてその志をなしとげたものといってよかろう。いずれその哲学に関係ある方面のことは追って別に述べることにいたして、中村正直という人のことについて一言しておきたい。この人は敬宇先生として知られているが、元来哲学だの論理学などということにはあまり注意もしないし、また喜ばなかった。殊に論理学などは最もきらいであった。ただしそれはよくもわかっていなかったようにも思う。が、この人はむしろ情の側の人で、道徳を主とし、宗教を崇《とうと》ぶという性質の人であったからして、直接哲学に関係あるというよりはむしろそういう方面に大いに注意すべき方面があった。もっともその翻訳などは広く世の人に購読せられたので、社会教育の方面から見ても西洋思想輸入という立場から見ても、明治の文運に多大の貢献をした人で、明治の思想史の側においてけっして看過すべき人でないと思う。
つまり明治の初年に新たに哲学の起ってきたというのも時勢の変化がさように促してきた結果である。徳川幕府が倒れて明治維新となり、西洋思想を輸入することが急激となってきた際、社会全体の大変化、大刷新とともに哲学も起ってきたような次第であるから、単に二、三または四、五の人の力のみによったわけではない。しかしその中の主要なる人物を挙ぐれば先刻列挙した人々がまず念頭に浮ぶのであるが、これらの人々の努力と苦心とによってまたさらに広く社会に多大の影響を及ぼしたことはいうまでもない。
それから明治の初年には仏教だの儒教だの、そういう伝統的の哲学思想もまたなかなか勢力を
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
井上 哲次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング