鸚鵡のイズム
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)赤表紙の叢書《そうしょ》の中に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正九年十一月『改造』)
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この頃ピエル・ヴィエイという盲目の学者の書いた『盲人の世界』というのを読んでみた。
私は自分の専門としている科学上の知識、従ってそれから帰納された「方則」というものの成立や意義などについて色々考えた結果、人間の五感のそれぞれの役目について少し深く調べてみたくなった。そのためには五感のうちの一つを欠いた人間の知識の内容がどのようなものかという事を調べるのも、最も適当な手掛りの一つだと思われた。それを調べた上で、もし出来るならば、世界中の人間がことごとく盲あるいは聾であったとしたらこれらの人間の建設した科学は吾々の科学とどうちがうか、という問題を考えてみたいと思っている。そういうわけで盲人や聾者の心理というものに多大な興味を感ずるようになった。
それでこの間この書物を某書店の棚に並んだ赤表紙の叢書《そうしょ》の中に見附けた時は、大いに嬉しかった。早速《さっそく》読みかかってみるとなかなか面白い。丁度自分が知りたいと思っていたような疑問の解釈が到る処に出て来た。そして更に多くの新しい問題を暗示された。
しかし私が今ここに書こうと思ったのはこの書物の紹介ではない。ただこれを読んでいる間に出会った一つの妙な言葉と、それについてちょっと感じた事だけである。
この書物の第十五章は盲と芸術との交渉を述べたものであるが、その中に、盲で同時に聾のヘレン・ケラーという有名な女の自叙伝中に現れた視覚的美の記述がどういう意味のものかという事を論じた一節がある。その珍しい自叙伝中から二、三小節を引用してあるのを見ると、例えば雪の降る光景などがあたかも見るように空間的に描かれている。あるいは秋の自然界の美しい色彩が盲人が書いたとは思われないように実感的に述べてある。しかし著者はこのような光景は固《もと》より盲者にとっては何らの体験にも相応しないバーバリズムに過ぎないという事を論じ、それから推論して、ケラーが彫刻を撫《な》で廻せばその作者の情緒がよく分るといった言葉の真実性を疑っている。
私はこれを読んだ時に何だか物足りないような気がした。ケラーの主張
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