が本当であり得るような気がすると同時に、そうであらせたいという気もした。しかし自分は盲でない。ヴィエイという優れた盲の学者の説に反対すべき何らの材料も持ち合せない。しかし少なくもこれだけの事は云われると思う。すなわち芸術に対する感受性は必ずしも各人に普遍的なものではないから、ヴィエイが感得しないある物をケラーが感じるという可能性は残っている。
 ヘレン・ケラーは生後十八ヶ月目に重い病《やまい》のために彼女の魂と外界との交通に最も大切な二つの窓を釘付《くぎづ》けされてしまったにかかわらず、自由に自国語を話し、その上独、仏、羅、希にも通ずるようになった。指先を軽く相手の唇と鼻翼に触れていれば人の談話を了解する事が出来る。吾々の眼には奇蹟のような女である。匂や床の振動ですぐに人を識別する女である。
 しかし私が書こうと思ったのはケラーの弁護ではなかった。ヴィエイがケラー自叙伝中の記述に対して用いた psittacism という言葉がある。
 私はこのイズムには始めて出会ったので、早速英辞書をあけて調べていると psittaci(シッタサイ)というのは鸚鵡《おうむ》の類をさす動物学の学名で、これにイズムがついたのは、「反省的自覚なき心の機械的状態」あるいは「鸚鵡のような心的状態」という意味だとある。
 私はこの珍しい言葉を覚えるために何遍も口の中で、シッタシズム、シッタシズムと繰り返した。それですっかり記憶してしまったが、それからは何かの拍子にこの妙な言葉が意外な時にひょっくり頭に浮んで来る。このような私の頭の状態もやはりこのイズムの一例かもしれない。
 そう云えば近頃世上で大分もてはやされる色々の社会的の問題に関する弁論や主張や宣伝中の一、二パーセント、あるいは二、三十パーセント、事によるともっと意外に大きいパーセントがやはり一種のシッタシズムの産物ではあるまいかという疑いが起った。
 秋季美術展覧会が始まって私も見に行った。そして沢山の絵を見ているうちにまた同様な疑いが起った。
 それからそれへと考えて行くと、日本国中到る処にこの妙なイズムが転がっているような気がして来た。
 最も意外に感じた事は自分が比較的によく体験し体得しているつもりでいた専門の学問上の知識の中にもよくよく吟味してみると怪しい部分が続々発見された。他人の研究を記述した論文を如何によく精読したところで
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