。河の上にあって、近所の建物からかなり遠く離れていて、それでどうしてこんなにひどく焼かれたか不思議なようである。これはもちろん、避難者の荷物が豊富な焚付《たきつ》けを供給したためである。火災後、橋々の上には、箪笥《たんす》やカバンの金具が一面にちらばっていたのでも、おおよそ想像が出来る。
永くこの経験と教訓を忘れないために、主な橋々に、この焼けこぼれた石の柱や板の一部を保存し、その脇に、銅版にでも、その由来を刻したものを張り付けておきたいような気がする。
徳川時代に、大火の後ごとに幕府から出した色々の禁令や心得が、半分でも今の市民の頭に保存されていたら、去年のあの大火は、おそらくあれほどにならなかったに相違ない。
江戸の文化は、日本の文化の一つである。馬鹿にすると罰が当る。
十四
大正十二年のような地震が、いつかは、おそらく数十年の後には、再び東京を見舞うだろうということは、これを期待する方が、しないよりも、より多く合理的である。その日が来た時に、東京はどうなるだろう。おそらく今度と同じか、むしろもっと甚だしい災害に襲われそうである。被服廠跡《ひふくしょうあと》でも、今度は一箇所ですんだが、この次には、これが何箇所にもなるだろう。それから、今度の地震にはなかった新しい仕掛けの集団殺人設備が、いろいろ出来ているだろう。たとえ高圧水道が出来ていようが、消防船が幾台出来ていようが、おそらくそんなものは何にもなるまい。それが役に立つくらいなら、今度だって、何かあったはずである。
もし百年の後のためを考えるなら、去年くらいの地震が、三年か五年に一度ぐらいあった方がいいかもしれない。そうしたら、家屋は、みんな、いやでも完全な耐震耐火構造になるだろうし、危険な設備は一切影をかくすだろうし、そして市民は、いつでも狼狽しないだけの訓練を持続する事が出来るだろう。そうすれば、あのくらいの地震などは、大風の吹いたくらいのものにしか当るまい。
十五
科学を奨励する目的で、われわれが誠心誠意でやっている事が、事実上の結果において、かえって正しく科学の進歩を妨害しているような悲しむべき場合が、全くないとは言われない。これは、注意していなければならないことである。
浅薄な通俗書籍雑誌の濫出、新聞紙上に時々現われるいかがわしいいわゆる「世界
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