込んでしまった。この時再び家を動かして過ぎ去る風の行《ゆく》えをガラス越しに見送った時、何処とも知れず吹入った冷たい空気が膝頭から胸に浸み通るを覚えた。この時われは裏道を西向いてヨボヨボと行く一人の老翁を認めた。乞食であろう。その人の多様な過去の生活を現わすかのような継ぎはぎの襤褸《ぼろ》は枯木のような臂《ひじ》を包みかねている。わが家の裏まで来て立止った。そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ばして前面に何物をか求むるように顔を上げた。窪んだ眼にまさに没せんとする日が落ちて、頬冠りした手拭の破れから出た一束の白髪が凩《こがらし》に逆立《さかだ》って見える。再びヨボヨボと歩き出すと、ひとしきりの風が驀地《まっしぐら》に道の砂を捲いて老翁を包んだ時|余《よ》は深き深き空想を呼起こした。しかしてこの哀れなる垂死の人の生涯を夢みた時、あたかもこの人の今の境遇が余の未来を現わしていて、余自身がこの翁の前身であるような感じがした。
 彼は必ず希望を抱いて生れ、希望の力によって生きて来たであろう。否《いな》今もなおこの凩に吹き散る雲の影のようななんらかの希望の影を追うているではあるまいか。
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング