検波器を使ってそして耳にあてる受話器を使えばそんなことはないそうである。しかし頭へ金属の鉢巻《はちまき》をしてまでも聞きたいと思うものはめったにないようである。
 夏休みのある日M君と二人で下高井戸《しもたかいど》のY園という所へ行って半日をはなはだしくのんきに遊んで夕飯を食った。ちょうど他には一人も客がなくて無月の暗夜はこの上もなく閑寂であった。飯がすんでそろそろ帰ろうかと思っていると、突然階下でJOAKが始まった。こんな郊外までJOAKが追い駆けて来ようとは思わなかったのであった。その晩はちょうどトリオでチャイコフスキーの秋の歌などもあった。周囲が静かであるためか、それとも器械がいいのか、こちらの頭がどうかしていたのか、そのトリオだけはちょっとおもしろく聞かれたので、階段の上に腰かけておしまいまで聞いた。このぶんならラディオもそれほど恐ろしいものではないと思った。
 その後ある休日の午後、第Xシンフォニーの放送があったとき、銀座のある喫茶店《きっさてん》へはいってみた。やはりだめであった。すべての楽器はただ一色の雑音の塊《かたまり》になって、表を走る電車の響きと対抗しているばかりである。でも曲の体裁を知るためと思って我慢して聞いていると、店員が何かぐあいでも直すためか、プラグを勝手に抜いたりまたさしたりするのでせっかくのシンフォニーは無残にもぶつ切れになってしまった。
 こんな行きがかりで自然ラディオというものに対する一種の恐れをいだくようになってみると、あの家々の屋上に引き散らしたアンテナに対しても同情しにくい心持ちになる。しかしそういう偏見なしにでもおそらくあれはあまり美しいものではない。物干しざおのようなものにひょろひょろ曲がった針金を張り渡したのは妙に「物ほしそう」な感じのするものだと思う。あんなことをしないでもすむ方法はあるそうである。
 ラディオをいじくっているうちに自分で放送がしたくなって来て、とうとういたずらの放送をはじめ、見つかってしかられた人がある。しかしこういう人はたのもしいところがある。
 現象の本性に関する充分な知識なしに、ただ電気のテクニックの上皮だけをひとわたり承知しただけで、すっかりラディオ通になってしまったいわゆるファンが、電波伝播《でんぱでんぱ》の現象を少しも不思議と思ってみる事もなしに、万事をのみこんだ顔をしているのがおかし
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