路傍の草
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)「三上《さんじょう》」という言葉がある。

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(例)[#地から3字上げ](大正十四年十一月、中央公論)
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     一 車上

「三上《さんじょう》」という言葉がある。枕上《ちんじょう》鞍上《あんじょう》厠上《しじょう》合わせて三上の意だという。「いい考えを発酵させるに適した三つの環境」を対立させたものとも解釈される。なかなかうまい事を言ったものだと思う。しかしこれは昔のシナ人かよほど暇人でないと、現代では言葉どおりには適用し難い。
 三上の三上たるゆえんを考えてみる。まずこの三つの境地はいずれも肉体的には不自由な拘束された余儀ない境地である事に気がつく。この三上に在《あ》る間はわれわれは他の仕事をしたくてもできない。しかしまた一方から見ると非常に自由な解放されたありがたい境地である。なんとならばこれらの場合にわれわれは外からいろいろの用事を持ちかけられる心配から免れている。肉体が束縛されているかわりに精神が解放されている。頭脳の働きが外方へ向くのを止められているので自然に内側へ向かって行くせいだと言われる。
 現代の一般の人について考えてみるとこの三上には多少の変更を要する。まず「枕上《ちんじょう》」であるが、毎日の仕事に追われた上に、夜なべ仕事でくたびれて、やっと床につく多くの人には枕上は眠る事が第一義である。それで眠られないという場合は病気なのだからろくな考えは出ないのが普通である。
「厠上《しじょう》」のほうは人によると現在でも適用するかもしれない。自分の知っている人の内でも、たぶんそうらしいと思われるほどの長時間をこの境地に安住している人はある。しかし寝坊をして出勤時間に遅れないように急いで用を足す習慣のものには、これもまた瞑想《めいそう》に適した環境ではない。
 残る一つの「鞍上《あんじょう》」はちょっとわれわれに縁が遠い。これに代わるべき人力《じんりき》や自動車も少なくも東京市中ではあまり落ち着いた気分を養うには適しないようである。自用車のある場合はあるいはどうかもしれないが、それのない者にとっては残る一つの問題は電車の「車上」である。
 電車の中では普通の意味での閑寂は味わわれない。しかしそのかわりに極度の混雑
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