杉《すぎ》に離れたり」「息吹きかえす霍乱《かくらん》の針」「顔に物着てうたたねの月」「いさ心跡なき金のつかい道」等にはなんらか晴れやかに明るいホルンか何かの調子があるに対して「つたい道には丸太ころばす」「足軽の子守《こもり》している八つ下がり」その他には少なくも調子の上でどことなく重く濁ったオボーか何かの音色がこもっている。最後にもう一つ「猿蓑《さるみの》」で芭蕉|去来《きょらい》凡兆《ぼんちょう》の三重奏《トリオ》を取ってみる。これでも芭蕉のは活殺自由のヴァイオリンの感じがあり、凡兆は中音域を往来するセロ、去来にはどこか理知的常識的なピアノの趣がなくはない。
 しかしこういう見立てのようなことはもちろん見る人によっていろいろちがいうるものであり、なんら絶対普遍的価値のないものである。従って、そういう無理な比較を列挙するのがここの目的ではない。ただこういう仮設的な比較によって、連句におけるいろいろな個性の対立ということがいかに重要なものであるかを理解するための一つの展望的見地を得ようとするに過ぎないのである。
 こういうふうに考えて来た後に、連句のうちでも独吟というものにどうもあまりお
前へ 次へ
全88ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング