や言葉では言い現わされない、純音楽的な進行の筋である。
このように、連句は文学であるよりは、より多く音楽である。近代のわが国の文学者が俳諧連句の存在を認めなかったのはむしろ当然であるかもしれない。しかしそうかと言っていわゆる音楽者のほうでは楽器や人間の声帯の発する音以外のものはいっさい取り扱わないのであるから、連句はもちろん音楽者からも顧みられない。
舞踊と連句とも、やはりその音楽的要素においてかなりよく似た点があると思うのであるが、舞踊家も舞踊の研究者もいまだかつてこのわが国に特有な音楽的芸術としての連句に一瞥《いちべつ》を与えようとしない。
近代のモンタージュ映画は次第に音楽的、連句的の方面に進展しているように見える。たとえば最近に見たソビエト映画の「春」のごときもそうである。特にこれには「季題感」が背景として動いているところに俳諧的な感じが強い。そうして、律動的旋律的|和声的《かせいてき》の進行を企図している点も実に連句的である。ただこの「春」と「炭俵」「猿蓑《さるみの》」等の中の歌仙とを対比して見ると、私はいかに前者がまだ幼稚で、いかに後者が洗練されているかに驚嘆するもの
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