である。それにかかわらず、わが国の映画界や多数の映画研究者・映画批評家はいたずらに西洋人の後塵《こうじん》を追蹤《ついしょう》するに忙しくて、われわれの足元に数百年来ころがっているこのきわめて優秀なモンタージュ映画の立派なシナリオの存在には気づかないように見える。あるいは気がついても認めたくないのかもしれない。そうしてプドーフキンがどう言った、エイゼンシュテインがどう言ったと言わなければ収まらないように見える。
 かようにして連句芸術は、文学者からも音楽家からも映画界からも閑却されて、あたかも過去の幽霊のごとくなってしまった。由来現今の日本人はすべてのものの批判の標準を西洋人の頭の中へ置くのであるから、西洋人の全然知らない従って称揚しない連句が問題にならないのもやむを得ない次第であろう。そのうちにだれか西洋で毛色の変わった日本学者がこの連句芸術を「発見」して、これを驚嘆し礼賛《らいさん》し宣伝する日が来るかもしれない。そうすると、ちょうど荷物の包み紙になっていた反古《ほご》同様の歌麿《うたまろ》や広重《ひろしげ》が一躍高貴な美術品に変化したと同様の現象を呈するかもしれない。ただ困った事
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