花との二つに負わせた事にも興味がある。これは一つには古来の伝統による雪月花の組み合わせにもよる事であろうが、しかし月花の定座に雪を加えてはたしかに多すぎてかえって統率が乱れる。しかしいずれか一つではまたあまりに単調になる。だいたいにおいて春の花のほがらかさと、秋の月の清らかさとを正と負、陽と陰の両極として対立させたものであるに相違ない。音楽で言わば長音階と短音階との対立を連想させるものもある。もちろん定座には必ず同季の句が別に二句以上結合して三協和音のごとき一群をなすのであって、結局は春秋季題の插入《そうにゅう》位置《いち》を規定する、その代表者として花と月とが選ばれているとも言われる。そうしてこの二つのものが他の季題に比べて最も広い連想範囲をもちうるために代表者に選ばれたことも事実であろう。しかし自分のおもしろいと思うのは、この定座の月と花とが往々具体的な自然現象としてではなくむしろ非常に抽象的な正と負の概念としてこの定座の位置に君臨している観があるということである。もちろんそうでない場合もまたはなはだ多いようであるがだいたいにおいては自然にそうなるべきはずのものではないかと思われ、そういう意識をもって作句してもしかるべきではないかと思うのである。しかしこれについては、古来の作例について具体的に系統的な調べをした上でなければ確定的な議論はできないので、ここにはただ一つの研究題目として提出するにとどめておく。
定座の配置のしかたもまたはなはだ興味あるものである。表六句の中に月が置かれているのはこの一ページのうわずるのを押える鎮静剤のようなきき目をもっている。裏十二の中に月と花が一つずつあってこの一楽章に複雑な美しさを与える一方ではまたあまりに放恣《ほうし》な運動をしないような規律を制定している。月が七句目のへんに来ているのは、表の月に照応してもう一度同じテーマを繰り返すことによって表の気分を継承した形である。そうして名残《なごり》の表に移らんとする二句前に花が現われて、それがまさにきたらんとするほがらかな活躍を予想させるようにも思われる。さて、いよいよ名残《なごり》十二句のスケルツォの一楽章においては奔放自在なる跳躍を可能ならしむるため、最後から一つ前の十一句目までは定座のような邪魔な目付け役は一つも置かないことにしてある。しかしこの十一句目に至ってそこで始めて次
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