る日本では、どうかすると一日の中に夏と冬とがひっくり返るようなことさえある。その上に大地震があり大火事がある。無常迅速は実にわが国の風土の特徴であるように私には思われる。
日本人の宗教や哲学の奥底には必ずこの自然的制約が深い根を張っている。そうして俳諧の華実もまた実にここから生まれて来るような気がする。無常迅速、流転してやまざる環境に支配された人生の不定感は一方では外来の仏教思想に豊かな沃土《よくど》を供給し、また一方では俳諧のさびしおりを発育させたのであろう。
私のこのはなはだ不完全に概括的な、不透明に命題的な世迷い言を追跡する代わりに、読者はむしろ直接に、たとえば猿蓑《さるみの》の中の任意の一歌仙を取り上げ、その中に流動するわが国特有の自然環境とこれに支配される人間生活の苦楽の無常迅速なる表象を追跡するほうが、はるかに明晰《めいせき》に私の言わんと欲するところを示揚するであろう。試みに「鳶《とび》の羽」の巻をひもといてみる。鳶はひとしきり時雨《しぐれ》に悩むがやがて風収まって羽づくろいする。その姿を哀れと見るのは、すなわち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧が生まれるのである。旅には渡渉する川が横たわり、住には小獣の迫害がある。そうして梨《なし》を作り、墨絵をかきなぐり、めりやすを着用し、午《ひる》の貝をぶうぶうと鳴らし、茣蓙《ござ》に寝《い》ね、芙蓉《ふよう》の散るを賞し、そうして水前寺《すいぜんじ》の吸い物をすするのである。
このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、また最も優秀なるモンタージュ映画となるのである。これについてはさらに章を改めて詳しく論じてみたいと思う。
ともかくも、俳諧連句が過去においてのみならず将来においても、必然的に日本国民に独自なものであるということは、以上の不備な所説でもいくらかは了解されるであろうと思う。そうして、かのチャンバレーン氏やホワイマント氏がもう少しよく勉強してかからないうちは、いくら爪立《つまだ》ちしても手のとどかぬところに固有の妙味のあることも明らかになるであろうと思う。
[#地から3字上げ](昭和六年三月、渋柿)
二 連句と音楽
連句というものと、一般に音楽と称するものとの間にある程度の形式的の類似があ
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