、そうしてあまり成効しなかった一つの習作とも見らるるものである。
 しかしなんと言っても俳諧は日本の特産物である。それはわれわれの国土自身われわれの生活自身が俳諧だからである。ひとたび世界を旅行して日本へ帰って来てそうして汽車で東海道をずうっと一ぺん通過してみれば、いかにわが国の自然と人間生活がすでに始めから歌仙式《かせんしき》にできあがっているかを感得することができるであろうと思う。アメリカでは二昼夜汽車で走っても左右には麦畑のほか何もない所があるという話である。ドイツでは行っても行っても洪積期《こうせきき》の砂地のゆるやかな波の上にばらまいた赤瓦《あかがわら》の小集落と、キーファー松や白樺《しらかば》の森といったような景色が多い。日本の景観の多様性はたとえば本邦地質図の一幅を広げて見ただけでも想像される。それは一片のつづれの錦《にしき》をでも見るように多様な地質の小断片の綴合《てつごう》である。これに応じて山川草木の風貌《ふうぼう》はわずかに数キロメートルの距離の間に極端な変化を示す。また気象図を広げて見る。地形の複雑さに支配される気温降水分布の複雑さは峠一つを隔ててそこに呉越《ごえつ》の差を生じるのである。この環境の変化に応ずる風俗人情の差異の多様性もまたおそらく世界に類を見ないであろう。一つは過去の封建制度によってこれが強調されたということは許容しても、人力のいかんともし難い天然環境の影響は将来においてもおそらく永久に継続するであろう。試みに中央線の汽車で甲州《こうしゅう》から信州《しんしゅう》へ分け入る際、沿道の民家の建築様式あるいは単にその屋根の形だけに注意してみても、私の言うことが何を意味するかがおぼろげにわかるであろうと思う。
 このような天然の空間的多様性のほかにもう一つ、また時間的の多様性においても日本はかなりに豊富に恵まれているのである。南洋中の島では一年じゅうがほとんど同じ季節であり、春夏秋冬はただの言葉である。ここでは俳諧は有り得ない。またたとえばドイツやイギリスにはほんとうの「夏」が欠如している。そうしてモンスーンのないかの地にはほんとうの「春風」「秋風」がなく、またかの地には「野分《のわき》」がなく「五月雨《さみだれ》」がなく「しぐれ」がなく、「柿紅葉《かきもみじ》」がなく「霜柱」もない。しかし大陸と大洋との気象活動中心の境界線にまたが
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