れが一つのまとまった全体を形成しておりながらその作者は必ずしも一人の人間でなくてむしろ一般には数人の一団より成る「集合人」であるということである。近ごろの言葉で言えば一種の共同制作によってできあがるものだということである。
漢詩でもたまには数人の合作になるものはあるようである。近ごろはひとつづきの小説を数人の作者が書き続けて行くのもあるようである。これらの場合その作者たちにとっては、行く先がどういうふうに成り行くものか見当がつかないで、そうしていろいろと思いもかけない方向に発展して行くという好奇的な享楽は多分にあるかもしれないが、できあがった結果をその制作過程を知らない読者のほうから見た場合にはたいていはなはだあっけのないものになってしまっているのが多いようである。できあがったものは形式上普通の詩や小説と全く同じであるから読むほうではそういうつもりで読み、またそういうものとしての論理や性格やの統一を要求しているのに、内容にはどうしてもどこかに分裂があり齟齬《そご》があるのを免れ難いからである。連句の場合ではこれと反対に読者のほうで初めから普通の詩や小説のように話の筋や論理的の連結を期待せず、また期待してもそういうものはどこにもない。そうして前条に詳説したようにたださまざまの景象や情緒の変転して行く間に生まれ来る「旋律」と「和声」とを聞かされるのである。従ってこの間に錯雑して現われて来るいろいろな作者のそれぞれちがった個性はなんらの破綻《はたん》を生じないのみか、かえってちょうどいろいろ違った音色をもつ楽器のそれぞれの音のような効果をもって読者の胸に響いて来るのである。
前者では一つの個性が分裂し破壊した感じを与えるのに対して、後者では多数の個性が融合調和して一つの全体を構成しているように感じられるのである。前者では往々たとえば一人の歌手の声が途中で破れていわゆる五色の声を出すような不快な感があるのに、後者では、いろいろの音域の肉声や楽器の音の集まった美しい快い合奏を聞くような感じを与えるのである。もし詩や小説の合作がまれに非常にうまく成効した場合にはどうかと言えば、それは畢竟《ひっきょう》言わば作者Aと作者Bとの共同によって成り立った「共通人」Cといったような一人の仮想的個人の詩か小説であるのと何も変わったことはないであろう。
ここで考えているような立場からす
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