には、目で見ればわかる絵画とちがって、「国語」を要素とする連句がほんとうに西洋人に「わかる」見込みはなかなか容易にはなさそうである。そうしてみると結局日本人の西洋本位思想が少しでも減退してほんとうの国民的自覚が勃興《ぼっこう》しない限り、連句が日本人自身から正当に認められる日の来るのはなかなか待ち遠しいかもしれない。考えてみると情けない次第である。
しかしまた考えてみると、西洋人のまねをして西洋の理論の代弁をするような情けないできそこないの日本人は、日本国民の中ではむしろ比較的少数な特殊階級の人間である。国民の大多数はやはり純良種の日本人であって米の飯とたくあんを食い、われら固有の民謡をうたい、われらの踊りを踊っている。そうして連句に現われているそのままの日本人の生活をまさしく生活しつつあるのである。従ってこれらの大多数の純日本人は当然に俳諧連句に対する先天的の理解力も創作能力も付与されているのである。ただ現在では彼らの耳目の及ぶ範囲のそとに連句が放逐されているために、彼らはこの者の存在を全く忘れてしまっているのである。神田《かんだ》を歩いてあの数多い書店の棚《たな》から棚とあさって歩いて見ても、連句に関する書籍の数は全体の何万分の一にも足りない少数である。日本人でありながらロシア人やアメリカ人になったような気持ちで浮かれた事を満載した書物はよく売れると見えて有り過ぎるほどあるのに、連句の本などはミイラかウニコーンを捜す気で捜さなければ見つからない。これが何よりの証拠である。ただ近来少数ではあるがまじめで立派な連句に関する研究的の著書が現われるのは暗夜に一抹《いちまつ》の曙光《しょこう》を見るような気がして喜ばしい。しかし結局連句は音楽である。音楽は演奏され聞かれるべきものである。連句の音楽はもう少し広く日本人の間に演奏され享楽されてしかるべきである。
「連句と音楽」という題目のもとに考えらるべき事はまだたくさんにあるが、それらについてはさらに項を改めて詳しく述べてみたいと思う。上述の未熟な所説についてはさらに考え直さなければならない不備の点も多いことと思われるので、それらの点については読者の示教を仰ぎたいと思うのである。
[#地から3字上げ](昭和六年四―五月、渋柿)
三 連句と合奏
連句の文学的作品としての著しい特異性の一つと見るべきことは、そ
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