量的と質的と統計的と
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)範疇的《はんちゅうてき》
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(例)[#地から3字上げ](昭和六年十月、科学)
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古代ギリシアの哲学者の自然観照ならびに考察の方法とその結果には往々現代の物理学者、化学者のそれと、少なくも範疇的《はんちゅうてき》には同様なものがあった。特にルクレチウスによって後世に伝えられたエピキュリアン派の所説中には、そういうものが数え切れないほどにあるようである。おそらくこれらの所説も、全部がロイキッポスやデモクリトスなどが創成したものではなくて、もっともっと古い昔からおぼろげな形で伝わり進化したものに根を引いているのであろうと想像される。しかしこれら哲学者の植え付けた種子が長い中世の冬眠期の後に、急に復興して現代科学の若葉を出し始めたのは、もちろん一般的時代精神の発現の一つの相には相違ない。しかし復興期の学者と古代ギリシアの学者との本質的な相違は、後者特にアテンの学派が「実験」を賤《いや》しい業《わざ》として手を触れなかったのに反して、前者がそういう偏見を脱却して、ほんとうの意味のエキスペリメントを始めた点にあると思われる。ガリレー、トリツェリ、ヴィヴィアニ、オットー・フォン・ゲーリケ、フック、ボイルなどといったような人がはなはだ粗末な今から見れば子供のおもちゃのような道具を使って、それで生きた天然と格闘して、しかして驚くべき重大な画期的実験を矢継ぎばやに行なったのがそもそもの始まりである。
この歴史的事実は往々、「質的の研究が量的の研究に変わったために、そこで始めてほんとうの科学が初まった」というお題目のような命題の前提として引用される。これは、この言葉の意味の解釈次第ではまさにそのとおりであるが、しかしこういう簡単な、わずか一二行の文句で表わされた事はとかく誤解され誤伝されるものである。いったいにこの種類の誤伝と誤解の結果は往々不幸にして有害なる影響を科学自身の進展に及ぼす事がある。それはその命題がポピュラーでそうして伝統的権威の高圧をきかせうる場合において特にはなはだしいのである。
量的というだけならば古代民族の天文学的測定ははなはだ量的なものであった。しかし彼らは実験はあまりしなかった。上記の科学の黎明期《れいめいき》におけるこれら実験の中のあるものはいくらか量的と言われうるものであったが、しかしこれらのすべては必ずしも今ごろ言うような量的ではなかったのである。この時代として最重要であったことは、「卵大」のガラス球についた「藁《わら》ぐらいの大きさの」管を水中に入れて「あたためると」ぶくぶく「泡《あわ》が出」、冷やすと水が管中に「上る」ことであった。また、銅球の中の水を強く吸い出すと急に高い音を立てて球がひしげたりした「こと」であった。あるいはむしろこういう「実験」をしてみようと思い立ったこと、それを実行した事であった。水が上ることが知られさえすればそれが何寸上ったかを計りたくなり、ポンプを引くのにひどく力がいればそれが何人力だか計りたくなり、そうしてそれを計る事ならばだれにでもできるのである。
ガリレー、ゲーリケ以後今日まで同様なことがずっと続いて跡を絶たない。ヴォルタの電盆や電堆《でんたい》、ガルバニの細君の発見と言われる蛙《かえる》の実験いずれも質的なる画期的実験である。オェルステットが有名な実験をした時の彼自身の考えは質的にさえ勘違いしていた。ルムフォードの有名な実験は「水が沸きさえもした」事に要点があった。ロバート・マイヤーがフラスコの水を打ち振った後にジョリーの室《へや》へ駆け込んで "Es ischt so !" と叫んだのは水が「あたたまった」ためで、それが何度点何々上ったためではなかったのである。ロェンチェン線の発見が学界を驚かしたのはその波長が幾オングストロェームあったためではなく、そういうものが「在《あ》る」ということであった。ベクレル線も同様であった。シー・ティー・アール・ウィルソンの膨張箱の実験が画期的であったゆえんはまず何よりも粒子の実在を質的に実証した点であった。ラウエ、菊池《きくち》の実験といえども、まず第一着に本質的に何よりもだいじなことは「写真板の上にあのような点模様が現われる」ことであった。それが現われた上での量的討究の必要と結果の意義の大切なことはもとより言うまでもないことであるが、第一義たる質的発見は一度、しかしてただ一度選ばれたる人によってのみなされる。質的に間違った仮定の上に量的には正しい考究をいくら積み上げても科学の進歩には反古紙《ほごがみ》しか貢献しないが、質的に新しいものの把握《はあく》は量的に誤っていても科学の歩みに一大飛躍を与えるのである。ダイアモンドを掘り出せば加工はあとから出来るが、ガラスはみがいても宝石にはならないのである。
現代のように量的に進歩した物理化学界で、昔のような質的発見はもはやあり得まいという人があるとすれば、それはあまり人間を高く買い過ぎ、自然を安く踏み過ぎる人であり、そうしてあまりに歴史的事実を無視する人であり、約言すれば科学自身の精神を無視する人でなければならない。
重大な発見の中でいわゆる Residual phenomena の研究から生まれるものがある。これらはもちろん非常に精密なる最高級の量的実験の結果としてのみ得られるものである。たとえばあまりに有名なルヴェリエの海王星における、レーリーのアルゴンにおけるごときものである。また近ごろの宇宙線(Cosmic ray)のごときものもそうである。これらの発見の重大な意義はと言えば、それらのものの精密なる数値的決定より先にそれらのものが「在《あ》る」ということを確立することである。もっともそのためには精密な計画と行き届いた考察なしには手を出せないことは言うまでもないことであるが、その際得る数字の最高精度は少なくも最初には必ずしも問題にならないのである。おもしろいことにはこの種の Residual effect はしばしばそれが「発見」されるよりずっと前から多くの人の二つの開いた目の前にちゃんと現在して目に触れていても、それが「在る」という質的事実を掘り出し、しっかり把握《はあく》するまでにはなかなか長い時を待たなければならないのである。これは畢竟《ひっきょう》量を見るに急なために質を見る目がくらむのであり、雑魚《ざこ》を数えて呑舟《どんしゅう》の魚を取りのがすのである。またおもしろいことには、物理学上における画期的の理論でも、ほとんど皆その出発点は質的な「思いつき」である。近代の相対性理論にしても、量子力学にしても、波動力学にしても基礎に横たわるものはほとんど哲学的、あるいは質的なる物理的考察である。これなしにはいかなる数学の利器をいかに駆使しても結局何物も得られないことは、むしろ初めからわかったことでなければならない。実際これらの理論の提出された当初の論文の形はある意味においてはほとんど質的のものである。それが量的に一部は確定され一部は修正されるのにはやはりかなりに長い月日を要するのである。
もちろん質的の思いつきだけでは何にもならないことは自明的であるが、またこれなしには何も生まれないこともより多く自明的である。西洋の学界ではこの思いつきを非常に尊重して愛護し、保有し、また他人の思いつきを尊重する学者が多いのであるが、わが国ではその傾向が少ないようである。「ただの思いつきである」という批評は多く非難の意味をもって使われるようである。思いつきはやはり愛護し助長させるべきであろう。
これらはきわめて平凡なことである。それにかかわらずここでわざわざこういうことを事新しく述べ立てるのは、現時の世界の物理学界において「すべてを量的に」という合い言葉が往々はなはだしく誤解されて行なわれるためにすべての質的なる研究が encourage される代わりに無批評無条件に discourage せられ、また一方では量的に正しくしかし質的にはあまりに著しい価値のないようなものが過大に尊重されるような傾向が、いつでもどこでもというわけでないが、おりおりはところどころに見られはしないかと疑うからである。そのために、物理的に見ていかにおもしろいものであり、またそれを追求すれば次第に量的の取り扱いを加えうる見込みがあり、そうした後に多くの良果を結ぶ見込みのありそうなものであっても、それが単に現在の形において質的であることの「罪」のために省みられず、あるいはかえって忌避されるようなことがありはしないか、こういうことを反省してみる必要はありはしないか。
むしろそういう研究を奨励することが学問の行き詰まりを防ぐ上に有効でありはしないか。
もちろん多くの優秀なる学徒たちは何もわざわざそういう質的の、容易なようで実はむずかしい実験などをやらなくても、立派に量的であって、しかもおもしろくて有益であるような研究に従事するほうが賢明であり能率が良いと考えるであろうし、またそれはまさにそのとおりである。それだけならば何も問題はないのであるが、しかしもしそういう人たちがかりにそういう人たちとは反対にわざわざ難儀で要領を得ない質的研究をしている少数な人たちの仕事を、意識的、ないしは無意識的に discourage しあるいは積極的に阻止するようなことが、たまにならばともかく、学界一般の風《ふう》をなすようなことがあったとすればどうか、そういう事が実際にあるかないか。これも一応反省してみなければならない。
現代において行なわれておりあるいは行なわれうべき質的研究は必ずしも初めから有益でありおもしろいとは限らない。十中八九は実際おそらくなんらの目立った果実を結ぶことなく歴史の闇《やみ》に葬られるかもしれない。しかしそういうものはいくらあっても、決して科学の進歩を阻害する心配はないのである。科学という霊妙な有機体は自分に不用なものを自然に清算し排泄《はいせつ》して、ただ有用なるもののみを摂取し消化する能力をもっているからである。しかしもしも万一これら質的研究の十中の一から生まれうべき健全なるものの萌芽《ほうが》が以上に仮想したような学風のあらしに吹きちぎられてしまうような事があり、あるいは少しの培養を与えさえすればものになるべきものを水をやらないために枯死させてしまうようなことがあったとしたら、それはともかくも科学の進歩をたとえ一時であっても、遅滞させるというだけの悪い効果はあるであろう。そういう事が現代にあるかないかを考慮してみる必要はないであろうか。まさかそれほどのことはないとしても、それに似た傾向はありはしないかを考えてみるほうがよくはないか。
ずっと昔から質的にしか知られていないような現象の研究には通例異常な困難が伴なう。結局の目的はやはりこれらを量的分析にかけるにあるが、現象のいかなる相貌《そうぼう》をつかまえてこれにそのような分析を加えるべきかの手掛かりを得るに苦しむのが常である。それが困難であればこそ従来の自然探究者から選み残され継子《ままこ》扱いにされて昔のままにわれわれの眼前にそのだらしのない姿を横たえているのである。しかし一方ではまた、だれもそういう現象の量的の取り扱いが不可能だということの証明をした人もないのである。「永久運動」や「角の三等分」の問題とはおのずからちがった範疇《はんちゅう》に属するものであることは明らかであると思われる。
こういう種類の問題の一例は、おなじみのリヒテンベルクの放電像のそれである。この人が今から百何十年前にこの像を得た時にはたぶん当時の学者の目を驚かせたに相違ないのであるが、それがその後の長い年月の間にただ僅少《きんしょう》な物好きな学者たちの手で幾度となく繰り返され、少しずつ量的分析へのおぼつかない歩みをはこんでいただけであった。やっと近年になってこの現象が電気動力線の瞬時的高圧の測定に利用されそうだとい
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