うので若干のエンジニアーによって応用の方面の見地から取り扱われはしたが、それも本質的に物理的な意味ではなんらの果実を結ぶこともなしに終わっているように見える。そうしてこの現象の物理的本性についてはもちろんいろいろの解説もあり、ある程度までは説明されたと信ぜられているのであるが、現在までのところではただ従来他の方面でよく知られた事実を適用して、それだけで説明し得られる限りの問題だけに触れてはいるが、あの不思議な現象のもっと本質的な根本問題については、あえて試みにでも解析のメスを下そうとすることがまれであるのみならず、その問題の存在とその諸相を指摘しようとする人もないように見えるのである。今日でもまだ奇妙でつまらぬもののことを「リヒテンベルクのような」という言葉で言い現わす人さえあるようである。これももっともなことである。
 こういう種類の現象は分類的に見るとたいてい事がらが偶然的に統計的であって、古典的物理学の意味において deterministic でないような部類に属しているのである。
 統計的数字を取り扱うことが「量的」であるかないか、従来の古典物理学で言うところの量的であるかないか、これは議論にもならないような事であるが、しかし事実上往々、たとえば地球物理学の問題における統計的研究は物理学上の量的研究とは全然別種のものと見なされ、どうかするとそれがかなり有益であり興味あるものであっても、「統計的だから」というわけをもって物理的なるものの圏外に置かれ、そういう仕事を行なう人たちには「統計屋」なるあまり愉快でない名前がさずけられる場合もあった。実際多くは統計屋であったかもそれはわからない。しかしそういう事実からして、統計的研究――物理学方法論から見た一つの方法としての――が本質的に無価値なるがごとき「感じ」を与えるようになるとしたら、それもまた憂うべきことである。
 近代物理学では実際統計的現象の領土は次第次第に拡張されて来た。そうして古い意味での deterministic な考え方は一つのかりの方便としてしか意味をもたなくなって来た。同じ原因は同じ結果を生ずるという命題は、「同じ」という概念の上におおいかかった黒雲のために焦点をはずれた写真のように漠然《ばくぜん》たる言詞となって来た。このような、これに関連したあらゆる物理学概念の根本的な革命は Reproducibility という概念にも根本的な革命をもたらしたように見える。今まではなるべくなら避けたく思った統計的不定の渾沌《こんとん》の闇《やみ》の中に、統計的にのみ再現的な事実と方則とを求めるように余儀なくされたのである。しかもそういう場合の問題の解析に必要な利器はまだきわめて不備であって、まさにこれから始めて製造に取りかかるべきである。このような利器のあるものはすでに偉大な現代学者の手で創成されたとは言え、これですべてが終わったとはどうしても考えられないようである。
 こういう時代において、それ自身だけに任せておくととかく立ち枯れになりやすい理論に生命の水をそそぎ、行き詰まりになりやすい抽象に新しい疎通孔をあけるには、やはりいろいろの実験が望ましい。それには行ない古したことの精査もよいが、また別に何かしら従来とはよほどちがった方面をちがった目で見るような実験的研究が望ましい。ことにこの眼前の生きた自然における現実の統計的物理現象の実証的研究によって、およそ自然界にいかに多様なる統計的現象がいかなる形において統計的に起こっているかを、できるならば片端から虱《しらみ》つぶしに調べて行って、そうしてそれらの現象の中に共通なる何物かを求めることが望ましく思われる。そういう共通なものがはたしてあるかという疑いに対しては、従来の物理学から見てまるで異なる方面の現象と思われるものの間に、少なくも formal な肖似の著しいもののあることは多くの人の認めるところであろう。少なくも肖似していると多数の人に思わせるような何物かがあることだけは確かである。この何物かは何であるか。それを説明すべき方則はまだ何人も知らないのである。しかしともかくも何かしら一種の方則なしに、どうしていったいそういう事が起こりうるであろうか。
 この難儀の問題の黒幕の背後に控えているものは、われわれのこの自然に起こる自然現象を支配する未知の統計的自然方則であって、それは――もしはなはだしい空想を許さるるならば――熱力学第二方則の統計的解釈に比較さるべき種類のものではあり得ないか。マクスウェル、ボルツマン、アーレニウスらを悩ました宇宙の未来に関するなぞを解くべきかぎとしての「第三第四の方則」がそこにもしや隠れているのではないか。
 このような可能性への探究の第一歩を進めるための一つの手掛かりは、上記のごとき統計的質的現象の周到なる実験的研究と、それの結果の質的整理から量的決算への道程の中に拾い出されはしないであろうか。
 要するに、従来のいわゆる統計物理学は物理学の一方の庇《ひさし》を借りた寄生物であったのであるが、今ではこの店子《たなこ》に主家《おもや》を明け渡す時節が到来しつつあるのではないか。ほんとうの新統計的物理学はこれから始まるべきではないか。これはもちろん筆者のはなはだ気違いじみた空想であるかもしれないが、ともかくも多くの人の少なくも一応は考慮してもよい事ではないかと思うのである。
 最後についでながら私が近ごろ出会ったおもしろい経験をここにしるしておこう。それはある会合の席でプランクトンの調査に関する講演を聞いた時、「今回のわれわれの調査はまだ単に量的であって質的の点までは進んでいない」という言葉を聞いて愕然《がくぜん》として驚いたのであった。物理学者にはいつでも最初が質的で次に量的が来るのに、ここではそれが正反対なのである。しかしあとでよく考えてみると、物理でもやはりプランクトンと同様なものを、水産学におけると同様に取り扱っていることは少しも珍しくない。つい近くまでわれわれは鉄の弾性とか磁性とかいうことを平気で言って、その「鉄」を作る微晶や固溶体のプランクトンの人別調べは略していた。何万ボルトの電撃という一語であらゆるサージの形を包括していた。放電間隙《ほうでんかんげき》と電位差と全荷電とが同じならばすべてのスパークは同じとして数えられた。すなわちわれわれはやはり量を先にして質をあとにしていたのであった。このある日の経験は私に有益であった。われわれが平生あまりに簡単に質的量的ということを考え過ぎているということを痛切に反省させられたのであった。

 以上未熟な考察の一部をしるして貴重なる本誌の紙面をけがし読者からのとがめを招くであろうことを恐れる。紙数の限りあるために意を尽くさない点の多いのを遺憾とする。ただ量的にあまりに抽象的な、ややもすれば知識の干物の貯蔵所となる恐れのある学界の一隅《いちぐう》に、時々は永遠に若い母なる自然の息を通わせることの必要を今さららしく強調するためにこんな蕪辞《ぶじ》を連ねたに過ぎないのである。若くてのんきで自由な頭脳を所有する学生諸君が暑苦しい研学の道程であまりに濃厚になったであろうと思われる血液を少しばかり薄めるための一杯のソーダ水として、あるいはまたアカデミックな精白米の滋味に食い飽きて一種のヴィタミン欠乏症にかかる恐れのあるときの一さじの米ぬかぐらいのつもりでこの一編の所説の中に暗示された何物かを味わってもらわれれば、筆者の望外のしあわせである。
[#地から3字上げ](昭和六年十月、科学)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング