含み、そのしずくの一滴ごとに二階の燈火が映じていた。あたりはしんとして静かな闇《やみ》の中に、どこかでくつわ虫が鳴きしきっていた。そういう光景がかなりはっきり記憶に残っているが、その前後の事がらは全く消えてしまっている。ことによると夢であったかもしれないと思われるほどおぼつかない記憶である。この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。なぜだかわからない。こんな平凡な景色の記憶がこんなに鮮明に残っているには、何かわけがあったに相違ないが、そのわけはもう詮索《せんさく》する手づるがなくなってしまっている。
 中学時代に友人二三人と小舟をこいで浦戸湾《うらとわん》内を遊び回ったある日のことである。昼食時に桂浜《かつらはま》へ上がって、豆腐を二三丁買って来て醤油《しょうゆ》をかけてむしゃむしゃ食った。その豆腐が、たぶん井戸にでもつけてあったのであろう、歯にしみるほど冷たかった。炎天に舟をこぎ回って咽喉《のど》がかわいていたためか、その豆腐が実に涼しさのかたまりのように思われた。
 熱い食物で涼しいものもある。小学時代に、夏が来ると南磧《みな
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