涼味数題
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)横浜《よこはま》であったか
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長い年月|熊本《くまもと》に勤めていた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年八月、週刊朝日)
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涼しさは瞬間の感覚である。持続すれば寒さに変わってしまう。そのせいでもあろうか、暑さや寒さの記憶に比べて涼しさの記憶はどうもいったいに希薄なように思われる。それはとにかく、過去の記憶の中から涼しさの標本を拾い出そうとしても、なかなか容易に思い出せない。そのわずかな標本の中で、最も古いのには次のようなものがある。
幼い時のことである。横浜《よこはま》であったか、神戸《こうべ》であったか、それすらはっきりしないが、とにかくそういう港町の宿屋に、両親に伴なわれてたった一晩泊まったその夜のことであったらしい。宿屋の二階の縁側にその時代にはまだ珍しい白いペンキ塗りの欄干があって、その下は中庭で樹木がこんもり茂っていた。その木々の葉が夕立にでも洗われたあとであったか、一面に水を含み、そのしずくの一滴ごとに二階の燈火が映じていた。あたりはしんとして静かな闇《やみ》の中に、どこかでくつわ虫が鳴きしきっていた。そういう光景がかなりはっきり記憶に残っているが、その前後の事がらは全く消えてしまっている。ことによると夢であったかもしれないと思われるほどおぼつかない記憶である。この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。なぜだかわからない。こんな平凡な景色の記憶がこんなに鮮明に残っているには、何かわけがあったに相違ないが、そのわけはもう詮索《せんさく》する手づるがなくなってしまっている。
中学時代に友人二三人と小舟をこいで浦戸湾《うらとわん》内を遊び回ったある日のことである。昼食時に桂浜《かつらはま》へ上がって、豆腐を二三丁買って来て醤油《しょうゆ》をかけてむしゃむしゃ食った。その豆腐が、たぶん井戸にでもつけてあったのであろう、歯にしみるほど冷たかった。炎天に舟をこぎ回って咽喉《のど》がかわいていたためか、その豆腐が実に涼しさのかたまりのように思われた。
熱い食物で涼しいものもある。小学時代に、夏が来ると南磧《みなみがわら》に納涼場が開かれて、河原の砂原に葦簾張《よしずば》りの氷店や売店が並び、また蓆囲《むしろがこ》いの見世物小屋がその間に高くそびえていた。昼間見ると乞食王国《こじきおうこく》の首都かと思うほどきたないながめであったが、夜目にはそれがいかにも涼しげに見えた。父は長い年月|熊本《くまもと》に勤めていた留守で、母と祖母と自分と三人だけで暮らしていたころの事である。一夏に一度か二度かは母に連れられて、この南磧の涼みに出かけた。手品か軽業《かるわざ》か足芸のようなものを見て、帰りに葦簾張りの店へはいって氷水を飲むか、あるいは熱い「ぜんざい」を食った。この熱いぜんざいが妙に涼しいものであった。店とはいっても葦簾囲《よしずがこ》いの中に縁台が四つ五つぐらい河原の砂利《じゃり》の上に並べてあるだけで、天井は星の降る夜空である。それが雨のあとなどだと、店内の片すみへ川が侵入して来ていて、清冽《せいれつ》な鏡川《かがみがわ》の水がさざ波を立てて流れていた。電燈もアセチリンもない時代で、カンテラがせいぜいで石油ランプの照明しかなかったがガラスのナンキン玉をつらねた水色のすだれやあかい提燈《ちょうちん》などを掛けつらねた露店の店飾りはやはり涼しいものであった。近年東京会館の屋上庭園などで涼みながら銀座《ぎんざ》へんのネオンサインの照明を見おろしているときに、ふいとこの幼時の南磧の納涼場の記憶がよみがえって来て、そうしてあの熱い田舎《いなか》ぜんざいの水っぽい甘さを思い出すと同時になき母のまだ若かった昔の日を思い浮かべることもある。この磧の涼味にはやはり母の慈愛が加味されていたようである。
高知《こうち》も夕なぎの顕著なところで正常な天気の日には夜中にならなければ陸軟風が吹きださない。それに比べると東京の夏は涼風に恵まれている。ずっと昔のことであるが、日本各地の風の日変化の模様を統計的に調べてみたことがある。この結果によると、太平洋岸や瀬戸内海《せとないかい》沿岸の多くの場所では、いわゆる陸軟風と季節的な主風とが相殺するために、夕なぎの時間が延長されるのであるが、東京では、特殊な地形的関係のおかげでこの相殺作用が成立しない。そのために、正常な天候でさえあれば、夕方の涼風を存分に発達させているということがわかったのであった。それはとにかく、こういう意味で、夕風の涼しさは東京名物の一つ
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