であろう。夕食後|風呂《ふろ》を浴びて無帽の浴衣《ゆかた》がけで神田《かんだ》上野《うえの》あたりの大通りを吹き抜ける涼風に吹かれることを考えると、暑い汽車に乗って暑い夕なぎをわざわざ追いかけて海岸などへ出かける気になりかねるのである。
 もっとも、東京でも蒸し暑い夜の続く年もある。二十余年の昔、小石川《こいしかわ》の仮り住まいの狭い庭へたらいを二つ出してその間に張り板の橋をかけ、その上に横臥《おうが》して風の出るのを待った夜もあった。あまり暑いので耳たぶへ水をつけたり、ぬれ手ぬぐいで臑《すね》や、ふくらはぎや、足のうらを冷却したりする安直な納涼法の研究をしたこともあった。しかし近年は裏の藤棚《ふじだな》の下の井戸水を頭へじゃぶじゃぶかけるだけで納涼の目的を達するという簡便法を採用するようになった。年寄りの冷や水も夏は涼しい。
 われわれ日本人のいわゆる「涼しさ」はどうも日本の特産物ではないかという気がする。シナのような大陸にも「涼」の字はあるが日本の「すずしさ」と同じものかどうか疑わしい。ほんのわずかな経験ではあるが、シンガポールやコロンボでは涼しさらしいものには一度も出会わなかった。ダージリンは知らないがヒマラヤはただ寒いだけであろう。暑さのない所には涼しさはないから、ドイツやイギリスなどでも涼しさにはついぞお目にかからなかった。ナイアガラ見物の際に雨合羽《あまがっぱ》を着せられて滝壺《たきつぼ》におりたときは、暑い日であったがふるえ上がるほど「つめたかった」だけで涼しいとはいわれなかった。
 少なくも日本の俳句や歌に現われた「涼しさ」はやはり日本の特産物で、そうして日本人だけの感じうる特殊な微妙な感覚ではないかという気がする。単に気がするだけではなくて、そう思わせるだけの根拠がいくらかないでもない。それは、日本という国土が気候学的、地理学的によほど特殊な位地にあるからである。日本の本土はだいたいにおいて温帯に位していて、そうして細長い島国の両側に大海とその海流を控え、陸上には脊梁《せきりょう》山脈がそびえている。そうして欧米には無い特別のモンスーンの影響を受けている。これだけの条件をそのままに全部具備した国土は日本のほかにはどこにもないはずである。それで、もしもいわゆる純日本的のすずしさが、この条件の寄り集まって生ずる産物であるということが証明されれば、問題は決定されるわけであるが、遺憾ながらまだだれもそこまで研究をした人はないようである。しかし「涼しさは暑さとつめたさとが適当なる時間的空間的週期をもって交代する時に生ずる感覚である」という自己流の定義が正しいと仮定すると、日本における上述の気候学的地理学的条件は、まさにかくのごとき週期的変化の生成に最もふさわしいものだといってもたいした不合理な空想ではあるまいかと思うのである。
 同じことはいろいろな他の気候的感覚についてもいわれそうである。俳句の季題の「おぼろ」「花の雨」「薫風《くんぷう》」「初あらし」「秋雨」「村しぐれ」などを外国語に翻訳できるにはできても、これらのものの純日本的感覚は到底翻訳できるはずのものではない。
 数千年来このような純日本的気候感覚の骨身にしみ込んだ日本人が、これらのものをふり捨てようとしてもなかなか容易にはふりすてられないのである。昔から時々入り込んで来たシナやインドの文化でも宗教でも、いつのまにか俳諧《はいかい》の季題になってしまう。涼しさを知らない大陸のいろいろな思想が、一時ははやっても、一世紀たたないうちに同化されて同じ夕顔棚《ゆうがおだな》の下涼みをするようになりはしないかという気がする。いかに交通が便利になって、東京ロンドン間を一昼夜に往復できるようになっても、日本の国土を気候的地理的に改造することは当分むつかしいからである。ジャズや弁証法的唯物論のはやる都会でも、朝顔の鉢《はち》はオフィスの窓に、プロレタリアの縁側に涼風を呼んでいるのである。
 この日本的の涼しさを、最も端的に表現する文学はやはり俳句にしくものはない。詩形そのものからが涼しいのである。試みに座右の漱石句集から若干句を抜いてみる。

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顔にふるる芭蕉《ばしょう》涼しや籐《とう》の寝椅子《ねいす》
涼しさや蚊帳《かや》の中より和歌《わか》の浦《うら》
水盤に雲呼ぶ石の影涼し
夕立や蟹《かに》這《は》い上る簀《す》の子《こ》縁《えん》
したたりは歯朶《しだ》に飛び散る清水《しみず》かな
満潮や涼んでおれば月が出る
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 日本固有の涼しさを十七字に結晶させたものである。
「涼しい顔」というものがある。たとえば収賄の嫌疑《けんぎ》で予審中でありながら○○議員の候補に立つ人や、それをまた最も優良なる候補者として推薦する町内の有志
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