などの顔がそれである。しかしまた俗流の毀誉《きよ》を超越して所信を断行している高士の顔も涼しかりそうである。しかしこの二つの顔の区別はなかなかわかりにくいようである。また、少し感の悪いうっかり者が、とんでもない失策を演じながら当人はそれと気がつかずに太平楽な顔をしているのも、やはり涼しい顔の一種に数えられるようである。これなどは愛嬌《あいきょう》のあるほうである。自分なども時々だいじな会議の日を忘れて遊びに出たり、受け持ちの講義の時間を忘れてすきな仕事に没頭していたり、だいじな知人の婚礼の宴会を忘れていて電話で呼び出されたりして、大いに恥じ入ることがあるが、しかたがないからなるべく平気なような顔をしている。これも人から見れば涼しい顔に見えるであろう。
 友人の話であるが、百貨店の食堂へはいって食卓を見回し、だれかの食い残した皿《さら》が見つかると、そこへゆうゆうとすわり込んで、残肴《ざんこう》をきれいに食ってしまって、そうして、ニコニコしながら帰って行くという人もあるそうである。これもだいぶ涼しいほうの部類であろう。
 義理人情の着物を脱ぎ捨て、毀誉褒貶《きよほうへん》の圏外へ飛び出せばこの世は涼しいにちがいない。この点では禅僧と収賄議員との間にもいくらか相通ずるものがあるかもしれない。
 いろいろなイズムも夏は暑苦しい。少なくも夏だけは「自由」の涼しさがほしいものである。「風流」は心の風通しのよい自由さを意味する言葉で、また心の涼しさを現わす言葉である。南画などの涼味もまたこの自由から生まれるであろう。
 風鈴の音の涼しさも、一つには風鈴が風に従って鳴る自由さから来る。あれが器械仕掛けでメトロノームのようにきちょうめんに鳴るのではちっとも涼しくはないであろう。また、がむしゃらに打ちふるのでは号外屋の鈴か、ヒトラーの独裁政治のようなものになる。自由はわがままや自我の押し売りとはちがう。自然と人間の方則に服従しつつ自然と人間を支配してこそほんとうの自由が得られるであろう。
 暑さがなければ涼しさはない。窮屈な羈絆《きはん》の暑さのない所には自由の涼しさもあるはずはない。一日汗水たらして働いた後にのみ浴後の涼味の真諦《しんたい》が味わわれ、義理人情で苦しんだ人にのみ自由の涼風が訪れるのである。
 涼味の話がつい暑苦しくなった。
 きょう、偶然ことし流行の染織品の展覧会というのをのぞいた。近代の夏の衣装の染織には、どうも一般に涼しさが欠乏しているのではないかと思う。しかし大通りでないその裏通りの呉服屋などの店先には、時たま純日本的に涼しい品を見かけることがある。江戸時代から明治時代にかけての涼味が、まだ東京の片すみのどこかに少しは残っているものと見える。
[#地から3字上げ](昭和八年八月、週刊朝日)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月29日作成
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