亮は一年おくれた。その時M氏に贈った句に「登る露散る露秋の別れかな」というのがある。
 高等学校では私もよく食った凱旋饅頭《がいせんまんじゅう》を五十も食って、あとでビットル散をなめたりしていたらしい。
 大学は農科へ入学して、農芸化学を修めていたが、そのうちにはげしい神経衰弱にかかって学校を休学した。それきりどうしても再び出ようとは言わなかったのを、私が留学から帰った時に無理にすすめて出る事にはなったが、それでもやはり学校は欠席がちであった。
 そのころは私はもう青年ではなかった。空想から現実の世界へ踏み込んで、功名心にかられて懸命に努力し、あくせくしていた。そうして亮《りょう》の学校をなまける心持ちには共鳴し難くなっていた。私の目から見るとただ自分の心の中へ中へと引っ込んで行く亮を、どうでも引き立てて外側へ向け直してやる事が自分の務めのように思っていたので、機会あるごとに口をすくして説法のような事を聞かせた。
 その当時の亮《りょう》の日記のようなものを見ていると、こんな一節がある。
「明治四十四年十一月二十八日――昨日|青山《あおやま》の宿から本郷《ほんごう》の下宿へ移った。朝押
前へ 次へ
全24ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング