亮の追憶
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)亮《りょう》の一周忌
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昨日|青山《あおやま》の宿から
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正十一年五月、明星)
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亮《りょう》の一周忌が近くなった。かねてから思い立っていた追憶の記を、このしおに書いておきたいと思う。
亮は私の長姉の四人の男の子の第二番目である。長男は九年前に病死し、四男はそれよりずっと前、まだ中学生の時代に夭死《ようし》した。昨年また亮が死んだので、残るはただ三男の順《じゅん》だけである。順はとくにいでて他家を継いでいる。それで家に残るは六十を越えた彼らの母と、長男の残した四人の子供と、そして亮の寡婦とである。さびしい人ばかりである。
亮の家の祖先は徳川《とくがわ》以前に長曾我部《ちょうそかべ》氏の臣であって、のち山内《やまのうち》氏に仕えた、いわゆる郷士であった。曾祖父《そうそふ》は剣道の師範のような事をやっていて、そのころはかなり家運が隆盛であったらしい。竹刀《しない》が長持ちに幾杯とかあったというような事を亮《りょう》の祖母から聞いた事がある。
亮の父すなわち私の姉の夫は、同時にまた私や姉の従兄《いとこ》に当たっている。少年時代には藩兵として東京に出ていたが、後に南画を川村雨谷《かわむらうこく》に学んで春田《しゅんでん》と号した。私が物心ついてからの春田は、ほとんどいつ行っても絵をかいているか書を習っていた。かきながら楊枝《ようじ》を縦に口の中へ立てたのをかむ癖があった。当時のいわゆる文人墨客の群れがしばしばその家に会しては酒をのんで寄せがきをやっていたりした。一方ではまた当時の自由党員として地方政客の間にも往来し、後には県農会の会頭とか、副会頭とか、そういう公務にもたずさわっていたようであるが、そういう方面の春田居士《しゅんでんこじ》は私の頭にほとんど残っていない。
わくに張った絵絹の上に山水や花鳥を描いているのを、子供の私はよくそばで見ていた。長い間見ていても、ほとんど口をきくという事はなかった。しかし、さも楽しそうに筆を動かしては楊枝《ようじ》をかんでながめているのを、そばで黙って見ているのがなんとなく気持ちがよかった。そこにはいつものどかな春永《はるなが》の空気があった。
私のみならず、家内じゅうのだれともめったに口をきいている事はまれなようであったが、ただ夕飯の膳《ぜん》にきまって添えられた数合の酒に酔って来ると、まるで別人のように気軽く物を言った。四人の子供や私などを相手にしていろいろの昔話をした。若い時分に東京で習ったとかいう講釈師の口まねをしたりして皆を笑わせた。藩兵になって日比谷《ひびや》の藩公邸の長屋にいた時分の話なども、なんべん同じ事を聞かされても、そのたびに新しいおもしろみとおかしみを感じさせた。それで子供らは、そういういくつかの取っておきの話の中から、あれをこれをと注文して話させては笑いこけるのであった。夏になると裏の畑に縁台を持ち出して、そこで夜ふけるまで子供を肴《さかな》にして酒をのんでいた。どうかすると、そこで酔い倒れてしまったのを、おおぜいで寝間までかつぎ込んだものである。どうかするときげんのよくない時もあって、そういう時は子供らは近づいてはいけない事になっていた。
春田は十二三年前に五十余歳で喉頭癌《こうとうがん》のためにたおれた。私の見た義兄は、珍しく透明な、いい頭をもっていて、世態人情の奥の底を見透していた人のように思われる。それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸《ひょういつ》なふうがあった。
郷里の親戚《しんせき》や知人の家へ行けば、今でも春田のかいた四君子や山水の絵の襖《ふすま》や屏風《びょうぶ》が見られる。私はそれを見るたびに、楊枝《ようじ》をかみながら絵絹に対している春田居士《しゅんでんこじ》を思い浮かべる。その幻像の周囲にはいつものどかな春の光がある。
亮《りょう》の生まれた時の事を私は夢のように覚えている。当時亮の家には腸チブスがはいって来て彼の兄や祖母や叔父《おじ》が相次いで床についていたので、彼の母はその生家、すなわち私の家に来て産褥《さんじょく》についた。姉の寝ていた枕《まくら》もとのすすけた襖《ふすま》に、巌《いわお》と竹を描いた墨絵の張りつけてあった事だけが、今でもはっきり頭に残っている。
少年時代の亮について覚えている事はきわめてわずかである。舌のさきを奥歯にやって、それをかみながら一種の音を立てる癖があった事を思い出す。これが父の楊枝をかむ癖と何か関係があったかどうかはわからない。それから何かのおりに、竹の切れはしで、
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