木瓜《ぼけ》の木をやたらにたたきながら、同じ言葉を繰り返し繰り返しどなっていた姿を思い出す。その時の妙に仙骨《せんこつ》を帯びた顔をありあり見るように思うが、これはあるいは私の錯覚であるかもしれない。またある時はのらねこを退治するのだと言って、槍《やり》かあるいは槍といっしょに長押《なげし》にかかっていた袖《そで》がらみのようなものかを持ち出して意気込んでいたが、ねこの鳴き声を聞くと同時にそれを投げ出して座敷にかけ上がったというような逸話もあった。
 三人の兄弟のだれと思い比べてみても、どこか世間をはなれたような飄逸《ひょういつ》なところのある点でいちばん父の春田居士《しゅんでんこじ》の風貌《ふうぼう》を伝えていたのではないかと私には思われる。
 幻燈というものがまだ珍しいものであったころ、亮がガラス板にかいた絵を、そのまま紙の小さなスクリーンに映写し、友だちを集めて幻燈会をやった事もあった。つまらないような事ではあるが、そういうふうの一種のオリジナリティもない事はなかった。
 たしか右の眉尻《まゆじり》の上に真紅《まっか》な血ぼくろのようなものがあって、それを傷つけると血が止めどもなく流れ出た。そんな思い出が、どういうものか、私にはまたなくなつかしいものである。
 亮《りょう》の存在が、私の頭の中で著しく鮮明になって来たのは、私が国の中学校を出て高等学校に入学し、年々の暑中休暇に帰省した時分からである。
 片田舎《かたいなか》の中学生で、さきざき高等学校から大学に進もうという志望をいだいているものにとっては、暑中休暇に帰省している先輩の言動はかなり影響のあるものである。そういうような影響もあるいはあったろうが、暑中休暇の間はほとんど毎日のように私のうちに往来した。当時どんな事が二人の話題に上ったかは思い出せないが、いずれ人生とか、運命とか、あるいは文学とか、芸術とか、そういう種類の事がおもなものであったらしい。当時若々しい希望に満ちて理想のほか何物も眼中になかった叔父《おじ》と、そろそろ家庭以外の世界に目をあけかかった感受性に富んだ甥《おい》との間には、夢のような美しい空想の国が広がっていた事であろう。
 つまりどこか気が合っていたものと見える。南国の炎天に写生帳をさげて、よくいっしょに水彩画をかきに出かけたりした。自転車の稽古《けいこ》をして、少し乗れるようになってからいっしょに市外へ遠乗りに行って、帰りに亮《りょう》が落ちて前歯を一本折った事もあった。
 そのころの亮の写生帳が保存されているのを今取り寄せて見ると、何一つ思い出の種でないものはない。第一ページには十七字集と題して、幼稚な、しかし美しい夢に満ちた俳句が、紫鉛筆や普通の鉛筆でかき並べてあって、その終わりの余白には当時はやった不折流《ふせつりゅう》のカットがかいてある。また自刻の印章――ボート形の内に竪琴《たてごと》と星を刻したの――が押してある。自分の家の門や庭の芭蕉《ばしょう》などの精密な写生があるかと思うと、裏田んぼの印象風景などもある。「くいし(山名)へ行くにはどっちですか」「神社」「アツマコート」「小女山道」「昼飯」「牛を追う翁《おきな》」「みかん」「いこいつつ水の流れをながめおれば、せきれい鳴いて日暮れんとす」など、とり止めもない遠足の途中のいたずら書きらしいものもある。
 亮のかいた絵に私が題句をかいたり、亮の句に私が生意気な評のようなものをかいたりしたのもある。私はそのころ熊本《くまもと》で夏目先生に句を見てもらっていた。そして帰省すると甥《おい》に句を作らせて自分が先生のつもりでいたものらしい。とにかくそのころの亮と私の生活はない交ぜたもののようになっていた事がこの帳面を見てもよくわかる。
 裏坪や台所などのスケッチを見ると、当時のB家のさまがいろいろ思い出されて、そのころからわずかに二十年の間に相次いでなくなった五人の親しい人々の面影を、ついそこらに見るような気がする。
 私が大学へ移ったのと入り代わりぐらいに、亮《りょう》は熊本《くまもと》の高等学校へはいった。同じ写生帳の後半にはそこの寄宿舎や、日奈久温泉《ひなぐおんせん》、三角港《みすみこう》、小天《おあま》の湯《ゆ》などの小景がある。日奈久の温泉宿で川上眉山《かわかみびざん》著「鳰《にお》の浮巣《うきす》」というのを読んだ事などがスケッチの絵からわかる。浴場の絵には女の裸体がある。また紋付きの羽織《はおり》で、書机に向かって鉢巻《はちま》きをしている絵の上に「アーウルサイ、モー落第してもかまん、遊ぶ遊ぶ」とかいたものもある。
 亮が後年までほとんど唯一の親友として許し合っていたM氏との交遊の跡も同じ帳面の絵からわかる。
 中学時代からいっしょであったのが、高校の入学試験でM氏は通過し、
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