い多きを恐れて、ますます間違いを生ず」という文句が入学式のあった日の日記にあるのも、そのへんの消息を語っているように見える。しかし格別の大失態というほどの事もなくて、後には教頭や舎監も勤めているのを見ると、そういう地位にでもどうにか適応するだけのものはやはり備えていたものと見える。亮の子供の時からの外見だけで彼を判断していた老人などは、そういう役目の勤まるのをむしろ不思議に感じていたらしい。
 いつだったか、かの地からよこした手紙に、次のような意味の事があった。
 今までは、何物にもぶつかるという事なしに、遠くからガラスの障子越しにながめるばかりで、それでいろんな事を空想しては恐ろしがってばかりいたが、今日ではもういやでも物にぶつからなければならない。そうなると空想をするだけの余裕はなくなる。そして存外勇気が出て来る。
 またこんな事もあった。「うまく物事をやろうというような気の出るのがいちばん困る。」
 卒業就職の後ともかくも神経衰弱は大部分|癒《い》えたようであった。ただかの地の冬の冷湿の気候が弱いからだにこたえはしまいかと心配していたが、割合にしばらくは無事であった。
 かの地ではおいおい趣味の上の友だちができて、その人たちと寄り合って外国文学の輪講会をやったりしていたようである。絵もいろいろかいていたらしい。ある時はたんねんに集めていた切り抜き版画などの展覧会をやったり、とにかく相当に自分の趣味を満足させるだけの環境はあったらしい。静かな田舎《いなか》で地味な教師をして、トルストイやドストエフスキーやロマン・ローランを読んだりセザンヌや親鸞《しんらん》の研究をしたり、生徒に化学などを授けると同時に図画を教えたり、時には知人の肖像をかいてやったりするような生活は、おそらく亮《りょう》が昔から望んでいた理想によほど近いものではなかったかと思う。前に出した「どうなりゆくか」の中にも「単純な仕事に、他の事は考えるひまなく、忙しく働いた後、湯にでもはいってゆったりして、本でも読むか、紅茶でも飲みながら、好きな絵でも見るような生活がやってみたい」とあるが、この望みはいくらか遂げられたのではないかと思われる。
 セザンヌの好きであった彼のそのころの日記にこんな事がある。「セザンヌの絵のような境地に至りたいと思いながら、今までその内容すなわちそれまでに至る努力を考えなかった。神にすべてをまかせて、安心して、自己の真を打ち出して、運命を直視し、苦しみ悲しみながら進もう。そしてシンプルな、落ち着いた、セザンヌの絵のような境地に達しよう。」またこんな事もある。「トルストイは人生の帰趣を決めてしまおうとした。そこに不自然があり無理がある。そこに芝居気が生ずる。」
 学校の職務について苦労のない事はなかった。学校にありがちな大小の事件のために彼の健康には荷の勝った辛労もあったようである。そういう時にどんな態度でどんな処置をとったかは全く私にはわからないが、ただ日記の断片のようなものなどから判断してみると、いつでもおしまいには自分の誠意や熱心や愛の足りない事を悔やんでいたようである。
 生徒にはそれでも相当に厳格であったらしい。舎監としてもかなりきびしいほうであったらしい。スリッパをはいて見回る、その足音を生徒がけむったがってスリッパというあだ名をつけていたそうである。生徒はまた亮《りょう》に「たつのおとし子」というあだ名をつけていると自分で話していた。これは彼の顔つきややせてひょろ長く、猫背《ねこぜ》を丸くしている格好などから名づけたものであろう。実際そういえばそうらしい様子もあった。しかし彼の風貌《ふうぼう》にはどことなく心の奥底のやさしみと美しさが現われていたように思う。生徒のこのあだ名から私はどうしても単純な憎悪や嫌忌《けんき》を読み取る事ができない。
 友だちといっしょに酒を飲んだりする時には、どうかすると元気がよくて、いつになく高談放語したり、郷里の昔の武士の歌った俗謡をどなったりする事もあったそうであるが、これはどうもやはり亮《りょう》のおもな本性ではなかったように私には思われる。ただもう少し健康で、もう少し体力が盛んであったら、こういう方面がもう少し平生にも現われたかもそれはわからない。
 弱いからだにとうとう不治の肺患が食い込んでしまった。東京の医師に診《み》てもらうために出て来て私のうちで数日滞在してから、任地近くの海岸へしばらく療養に行っていたが、どうもはかばかしくないので、学校を休職して郷里の浜べに二年余り暮らした。天気がいいと油絵のスケッチに出たりしていたようである。ほんとうに突っ込んでかきたいと思っても、ついめんどうでいいかげんにごまかしてしまうのが残念だというような事を手紙の端に書いてあったりした。そのころのスケッチ
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