「高等学校の校医の○○も、○○という体操教師も『君のにいさんはとても高等学校もよう卒業しまいと思っていたが、大学へ行くようになったから、存外かまわないものだ』と言ったと弟が話した。それを聞いてなんだか一種自分というものに対する責任が多少軽くなったような安心を覚えた。」
 第二第三の原因らしいものも考えられない事はないが、それらはここには書かない。

 亮《りょう》は自分の事を頭が悪い悪いと言っていた。しかし私の見るところでは、むしろ珍しいくらいいい透徹した頭脳をもっていたように思われる。かなり複雑な科学上の事実や理論でも気持ちのいいように急所をのみ込んだ。世間に起こっているいろいろな出来事でも、その事がらの表面に現われている現象よりも、その現象の底にある原動力のほうにすぐに目をつけていた。他人の言行でもそれを通して直接に腹の中を見透していた。そういう敏感さは子供の時分からすでにあったのが、病気のためにいっそう著しく病的に敏感になっていたように思う。それだから、他人はもちろん肉親の人々やまた自分自身のでも、胸の奥底にある少しの黒い影でも見のがす事ができなかった。そしてそういう美しくないものに対する極端な潔癖は、人に対し自分に対する無心な純な感情の流露を妨げた。そうしてまたそのような感情の拘束の自覚が最もきびしく彼を苦しめ悩ましていたように見える。しかし人一倍美しいやさしい感情を持っていなかったのであったら、このような煩悶《はんもん》はおそらく有り得なかったのではあるまいか。罪は頭のいい事にあった。もう少し頭が悪かったら、亮《りょう》はどんなに気らくであったろう。
 こういう不安と煩悶《はんもん》をいだきつつ、学校へ出ては発酵化学の実験をやり、バクテリヤの培養などをやっていた。そして夜は弟と二人で、よく寄席《よせ》や芝居や活動を見に行って、やるせない心のさびしさを紛らせようとしていたらしい。胃の痛むのによく蕎麦《そば》や汁粉《しるこ》を食ったりしては、さらに自分に対する不満を増していたように見える。
「本日は弟と歌舞伎座《かぶきざ》に行く事になっていた。――父の病気に対する『愛なき恐れ』、金に対する不安、母の辛苦、不孝のために失われたる親子の愛情、学業に対する不忠実、このようなものが入り乱れている頭には、この大芝居の忠臣蔵もおもしろいはずはない。しかし芝居のようなざわざわしている所がいちばん『忘れる』に適している。」
 その翌日の記事には、
「きのう芝居から帰りに、そばやしるこを食い過ぎたため胃のぐあいが悪い。学校を休む事にきめる。弟も休んでいる。絵をかいて暮らした。夜は末広亭《すえひろてい》へ雨がどしどし降るのに出かける。かなり大きな薄暗い小屋に二三人しか客が見えない。語る人も聞く人もさびしい。帰りはまたそばやで酒を飲んだ。」
 心のさびしさが不養生をさせ、その結果がさびしさを増していたのである。
 四十三年一月下旬に父の春田居士《しゅんでんこじ》が死んだ。その年の三月から亮《りょう》は学校へ出るのを全くやめて、あてもなく総州《そうしゅう》へんを旅行したりしていたらしいが、いよいよ神経衰弱がひどくなって、とうとう四月に国へ帰ってしまった。前に言ったように四十四年に再び引きずられるように上京して、私の近所の下宿から学校へ通《かよ》っていたが、翌年にそれでもどうにか卒業した。
「……ことしで、はや、三度学校をしくじって、今度やっと末席で卒業する事ができた。しかし卒業したのはやはりうれしかった。そして神田《かんだ》の西洋料理でやった謝恩会へも出た。しかし黙ってすみのほうへ引っ込んでいた。」こんな事が「どうなりゆくか」と題した日記のノートの最後のページに書いてある。それでこの帳面は終わっているのである。卒業はともかくも亮《りょう》にとっても一つの一大転機であった。
 この世の中で最劣等の人間のごとく自分を感じていた亮は、彼を教えていた教授がたの目には決してそうばかりとは見えなかった。ある先生などは特に彼の頭のいい事を確かに認めていたらしい。それで卒業席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農学校の教諭として赴任することとなった。そして数年前に結婚して郷里に残してあった妻と、そこに始めて自分の家庭をもつようになった。
 かの地に行ってからの生活については私はあまり多くを知らない。しかしそこでの亮《りょう》はだいたいにおいて幸福であったらしく私には思われる。
 交際という事には全く慣れず、あらゆる実務という事に経験もなく趣味もなかった亮の赴任当座は、ずいぶんいろいろ困る事が多かったろうという事は想像するに難くない。おそらくあらゆる失敗を重ね、それについてあらゆる苦痛をなめたろうと想像される。「自己の頭の間違
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