午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろいろの電球をズックの天井の下につるし並べてイルミネーションをやる。一等室のほうからも燕尾服《えんびふく》の連中がだんだんにやってくる。女も美しい軽羅《けいら》を着てベンチへ居並ぶ。デッキへは蝋《ろう》かなにかの粉がふりまかれる。楽隊も出て来てハッチの上に陣取った。時刻が来ると三々五々踊り始めた。少し風があるのでスカーフを頬《ほお》かぶりにしている女もある。四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議に思って見守るのであった。横浜《よこはま》から乗って来た英人のCがオランダの女優のいちばん若く美しいのと踊っていた。なんとなく不格好に、しかし非常に熱心に踊っているのがおかしいようでもあったが、ハイカラでうまく踊る他の多くのダンディよりこのほうが自分にはいい気持ちを与えた。舞踏というものは始めて見たが、なるほどセンシュアルな暗示に富んだものである。これを引き去ったらあとには何物が残るだろうと思ったりした。
反対の側のデッキには、舞踏などまるで問題にしないで談笑している一組もあった。
四月二十二日
夜九時から甲板で音楽会をやった。一人前五十ペンスずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだという。
英国人で五十歳ぐらいの背の高い肥《ふと》ったそしてあまり品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると、その歌はだれでも知っているのだと見えて聴衆がみんないっしょに歌い出してせっかくの独唱《ソロ》はさんざんに押しつぶされてしまった。おかしくもあったが気の毒でもあった。なんだかドイツ人の群集の中で英国人のある特性そのものが嘲笑《ちょうしょう》の目的物になっているような気がした。そしてその特性は自分もあまり好かないものであるのにかかわらず、この時はなんだか聴衆の悪じゃれを不愉快に感じた。それでもやっぱりおかしい事はおかしかった。ブラムフィールドという名前がこの人とこの小事件とになんとなく調和していると思った。
自分の室付きのボーイの兄のマクスが皆から無理にすすめられて演奏台に立った。美しいテノルで歌い出すと、今まで謙遜《けんそん》であった彼とは別人のように、燃えるような目を輝かせ肩をそびやかして勇ましい一曲を歌った。聴衆は盛んな拍手をあびせかけて幾度か彼を壇上に呼び上げた。
[#ここから2字下げ]
(この時から一年余り後にハンブルヒである大きいカフェーにはいったら、そこのオーケストラの中でバイオリンをひいているマクスを見いだした。声をかけたいと思ったがおおぜいの客の眼前に気がひけてついそのまま別れてしまった。彼の顔はなんだか少しやつれていたような気がした。)
[#ここで字下げ終わり]
四月二十三日
朝食後に出て見ると左舷《さげん》に白く光った陸地が見える。ちょっと見ると雪ででもおおわれているようであるが、無論雪ではなくて白い砂か土だろう。珍しい景色である。なんだかわれわれの「この世」とは別の世界の一角を望むような心持ちがする。「陸地の幽霊」とでもいいたいような気がする。Weird という英語のほかに適当な形容詞は思いつかなかった。……あれがソコトラの島だろうと言っていた。
朝九時アデンに着いた。この半島も向かいの小島もゴシック建築のようにとがり立った岩山である。草一本の緑も見えないようである。やや平坦《へいたん》なほうの内地は一面に暑そうな靄《もや》のようなものが立ちこめて、その奥に波のように起伏した砂漠《さばく》があるらしい。この気味のわるい靄《もや》の中からいろいろの奇怪な伝説が生まれたのだろう。
土人がいろいろの物を売りに来る。駝鳥《だちょう》の卵や羽毛、羽扇、藁細工《わらざいく》のかご、貝や珊瑚《さんご》の首飾り、かもしかの角《つの》、鱶《ふか》の顎骨《がくこつ》などで、いずれも相当に高い値段である。
船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる。その腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでいる。あれがパイロットフィッシュだとだれかが教える。オランダ人で伝法肌《デスペラド》といったような男がシェンケから大きな釣《つ》り針《ばり》を借りて来てこれに肉片をさし、親指ほどの麻繩《あさなわ》のさきに結びつけ、浮標にはライフブイを縛りつけて舷側《げんそく》から投げ込んだ。鱶《ふか》はつい近くまで来てもいっこう気がつかないようなふうでゆうゆうと泳いで行く。
自分と並んで見ていた男が、けさ早く鯨の潮を吹いているのに会ったと話していた。鱶《ふか》はいつまでも釣れそうにはなかった。
土人が二人、甲板で手拍子足拍子をとって踊った。土人の中には大きな石鹸《せっけん》のような格好をした琥珀《こはく》を二つ、布切れに貫ぬいたのを首にかけたのがいた。やはり土人の巡査が、赤帽を着て足にはサンダルをはき、鞭《むち》をもって甲板に押し上がろうとする商人を制していた。
一時に出帆。昨夜電扇が止まって暑くて寝られなかったので五時半ごろまで寝た。夜九時にバベルマンデブの海峡を過ぎた。熱帯とも思われぬような涼しい風が吹いて船室《キャビン》の中も涼しかった。
四月二十五日
十二使徒という名の島を右舷に見た。それを通り越すと香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなかった。
一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと話していた。妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく故国へ帰る道であったそうな。
四月二十六日
午後T氏がわざわざ用意して手荷物の中に入れて来た煎茶器《せんちゃき》を出して洗ったりふいたりした。そしてハース氏夫妻、神戸《こうべ》からいっしょのアメリカの老嬢二人、それに一等のN氏とを食堂に招待してお茶を入れた。菓子はウェーファースとビスケットであった。
[#地から3字上げ](大正九年十月、渋柿)
六 紅海から運河へ
四月二十七日
午前|右舷《うげん》に双生《ツウイン》の島を見た。一方のには燈台がある。ちょうど盆を伏せたような格好で全体が黄色い。地図で見ると兄弟島《デイブルーデル》というのらしい、どちらが兄だかわからなかった。
アデンを出てから空には一点の雲も見ないが、空気がなんとなく濁っている。ハース氏の船室は後甲板の上にあるが、そこでは黒の帽子を一日おくと白く塵《ちり》が積もると言っていた。どうもアフリカの内地から来る非常に細かい砂塵《さじん》らしい。
午後乗り組みの帰休兵が運動競技をやった。綱引きやら闘鶏《ハーネンカンプ》――これは二人が帆桁《ほげた》の上へ向かい合いにまたがって、枕《まくら》でなぐり合って落としっくらをするのである。それから Geld Suchen im Mehl というのは、洗面鉢《せんめんばち》へ盛ったメリケン粉の中へ顔を突っ込んで中へ隠してある銀貨を口で捜して取り出すのである。やっと捜し出してまっ白になった顔をあげて、口にたまった粉を吐き出しているところはたしかに奇観である。Aepfel Suchen im Wasser というのは、水おけに浮いているりんごを口でくわえる芸当、Wurst Schnappen は頭上につるした腸詰めへ飛び上がり飛び上がりして食いつく遊戯である。将校が一々号令をかけているのが滑稽《こっけい》の感を少なからず助長するのであった。
船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧《しんぺき》の水の中に桃紅色の海月《くらげ》が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦《えび》だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。
右舷《うげん》に見える赤裸の連山はシナイに相違ない、左舷にはいくつともなくさまざまの島を見て通る。夕方には左にアフリカの連山が見えた。真に鋸《のこぎり》の歯のようにとがり立った輪郭は恐ろしくも美しい。夕ばえの空は橙色《だいだいいろ》から緑に、山々の峰は紫から朱にぼかされて、この世とは思われない崇厳な美しさである。紅海《こうかい》は大陸の裂罅《れっか》だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」というものがおぼろげながら実認《リアライズ》されるような気がした。
四月二十八日
朝六時にスエズに着く。港の片側には赤みを帯びた岩層のありあり見える絶壁がそばだっている。トルコの国旗を立てたランチが来て検疫が始まった。
土人の売りに来たものは絵はがき、首飾り、エジプト模様の織物、ジェルサレムの花を押したアルバム、橄欖樹《かんらんじゅ》で作った紙切りナイフなど。商人の一人はポートセイドまで乗り込んで甲板で店をひろげた。
十時出帆徐行。運河の土手の上をまっ黒な子供の群れが船と並行して走りながら口々にわめいていた。船ではだれも相手にしないので一人減り二人減り、最後に残った二三人が滑稽《こっけい》な身ぶりをして見せた。そして暑い土手をとぼとぼ引き返して行った。両岸ことにアラビアの側は見渡す限り砂漠《さばく》でところどころのくぼみにはかわき上がった塩のようなまっ白なものが見える。アフリカのほうにははるかに兀《ごつ》とした岩山の懸崖《けんがい》が見え、そのはずれのほうはミラージュで浮き上がって見えた。苦海《ビッターシー》では思いのほか涼しい風が吹いたが、再び運河に入るとまた暑くなった。ところどころにあるステーションだけにはさすがに樹木の緑があって木陰には牛や驢馬《ろば》があまり熱帯らしくない顔をして遊んでいた。岸べに天幕があって駱駝《らくだ》が二三匹いたり、アフリカ式の村落に野羊がはねていたりした。みぎわには蘆《あし》のようなものがはえている所もあった。砂漠にもみぎわにも風の作った砂波《サンドリップル》がみごとにできていたり、草のはえた所だけが風蝕《ふうしょく》を受けないために土饅頭《どまんじゅう》になっているのもあった。
夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤く天心にかかって砂漠《さばく》のながめは夢のようであった。船橋の探照燈は希薄な沈黙した靄《もや》の中に一道の銀のような光を投げて、船はきわめて静かに進んでいた。つい数日前までは低く見えていた北極星《ポーラリス》が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。
スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム行きの一行十人ばかり、シェンケの側の甲板で卓を囲んで、あす上陸する前祝いででもあるかビールを飲みながら歌ったり踊ったりしていた。
[#地から3字上げ](大正九年十一月、渋柿)
七 ポートセイドからイタリアへ
四月二十九日
昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなかった。……際限もなく広い浅い泥沼《どろぬま》のような所に紅鶴《フラミンゴー》の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の間にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった。
神戸《こうべ》からずっといっしょであった米国の老嬢二人も、コンチャーの家族も、いよいよここで下船して、ジェルサレムへ、エジプトへ、思い思いに別れて行くのであった。老嬢の一人はねんごろに手を握って「またいつか日本で会いましょう」などと言った。
「お早う、今日は」と日本語で呼びかけるものがある。見ると、若いスマートなトルコ人の煙草売《たばこう》りであった。横浜にいたことがあるとか言って、お定まりらしいお世辞を言ったりした。結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。
音楽が水の上から聞こえて来る。舷側《げんそく》から見おろすと一|隻《せき》のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなもの
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