をやっている。まん中には立派な顔をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるやかに櫂《かい》をあやつっている。その前には麦藁帽《むぎわらぼう》の中年の男と、白地に赤い斑点《はんてん》のはいった更紗《さらさ》を着た女とが、もたれ合ってギターをかなでる。船尾に腰かけた若者はうつむいて一心にヴァイオリンをひいている。その前に水兵服の十四五歳の男の子がわき見をしながらこれもヴァイオリンの弓を動かしている。もう一人ねずみ色の地味な服を着た色の白い鼻の高い若い女は沈鬱《ちんうつ》な顔をしてマンドリンをかき鳴らしている。船首に一人離れて青い服を着た土人の子供がまるで無関係な人のようにうずくまっていた。このような人々の群れの中にただ一人立ち上がって、白張りの蝙蝠傘《こうもりがさ》を広げたのを逆さに高くさし上げて、親船の舷側から投げる銀貨や銅貨を受け止めようとしている娘があった。緑がかったスコッチのジャケツを着て、ちぢれた金髪を無雑作《むぞうさ》に桃色リボンに束ねている。丸く肥《ふと》った色白な顔は決して美しいと思われなかった。少しそばかす[#「そばかす」に傍点]のある頬《ほお》のあたりにはまだらに白粉《おしろい》の跡も見えた。それで精一杯の愛嬌《あいきょう》を浮かべて媚《こ》びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に蝙蝠傘《こうもりがさ》をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって舷《ふなばた》や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませているらしく肩から胸が大きく波をうっていた。楽手らはめいめいただ自分の事だけ思いふけってでもいるようにまた自分らの音楽の悲哀に酔わされてでもいるように、みんな思いつめたような暗い顔をしていた。滅びた祖国、流浪の生活、熱帯の夏の夜の恋、そんなものを思わせるような、うら悲しくなまめかしい音楽が黄色く濁った波の上を流れて行った。波の上にはみかんの皮やビールのあきびんなどが浮いたり沈んだりして音楽に調子を合わせていた。……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の舷側《げんそく》へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。
七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」と言っているように見える。運河会社の円頂塔《キューポラ》は朝日に輝いていた。
地中海は雲一つ見えなかった。もういよいよアジアとは縁が切れたのだと思う。……午後船の散髪屋へ行く。「ドイツ語がおじょうずですね」などと言われて、おしまいにはまたドロップの瓶入《びんい》りを買わされた。
四月三十日
朝からもうクリート島が右舷に見えていた。島というにはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいものが見えていた。まさか雪ではあるまいとハース氏と言っていたが、とうとう Es ist doch Schnee と言って承認した。甲板は少し寒かった。寒暖計はそんなでもないのに、長い間暑さに慣れて皮膚が甘やかされているのであった。
午後三時十五分から子供の祝宴 Kinderfest を催すという掲示が出た。
ハース氏がその掲示文を読んで文章のまずい所を指摘して教えてくれた。時刻が来るとおおぜいの子供が甲板へ集まる。食卓には日本製の造花を飾り、皿《さら》にクラッカーと紙旗とをのせたのを並べてある。見るだけでも美しいトルテや菓子も出ている。子供らは N. L. D. の金文字を入れた黒リボン付きの紙帽子をかぶり、手んでに各国の国旗を持ち、楽隊の先導で甲板を一周した後に食卓についた。おとならはむしろうらやましそうに見物していた。……T氏と艙《ふなぐら》へはいって、カバンを出してもらって、ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした。
五月一日
午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える。富士山によく似ているという人もあったが、自分の感じはまるでちがっていた。右舷《うげん》の山には樹木は少ないが、灰白色の山骨は美しい浅緑の草だか灌木《かんぼく》だかでおおわれている。海浜にはまっ白な小さい家がまばらに散らばっている。だれかの漁村の詩にこんな景色があったような気がした。もう「東洋」と「熱帯」の姿はどこにもなかった。まもなく右にレッジオ、左にメッシナの町の薄暮の燈火を見て過ぎる。メッシナは大地震のために破壊されて灯《ひ》の数は昔の比較にならないとハース氏が話した。
九時ごろから喫煙室でN君ハース氏らと袂別《けつべつ》の心持ちでシャンペンの杯をあげた。……十時過ぎにストロンボリの火山島が見えた。十五夜あたりの月が明るくて火口の光はただわずかにそれと思われるくらいであった。背の低い肥《ふと》ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大きな腹を突き出して、「ストロンボーリ、ストロンボーリ」とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしていた。故国に近づく心の興奮をおさえきれないように、あるいはまたこの「地中海の燈台」と言われる火山をできるだけ多くの旅客に見せたいと思っているかのように、最後から二番目の綴音《シラブル》「ボー」に強い揚音符《アクセント》をつけてまた幾度か「ストロンボーリ、ストロンボーリ」と叫んでいた。月夜の海は次第に波が高くなって、船は三十度近くも揺れるので、人々はもうたいてい室の毛布にくるまって、あす着くナポリの事でも考えているだろうに。……
[#地から3字上げ](大正九年十二月、渋柿)
八 ナポリとポンペイ
五月二日
朝甲板へ出て見ると、もうカプリの島が見える。朝日が巌壁《がんぺき》に照りはえて美しい。やがてヴェスヴィオも見えて来た。遠い異郷から帰って来たイタリア人らは、いそいそと甲板を歩き回って行く手のかなたこなたを指ざしながら、あれがソレント、あすこがカステラマレと口々に叫んでいる。いろいろの本で読んだ覚えのある、そしていろいろの美しい連想に結びつけられたこれらの美しい地名が一つ一つ強い響きを胸に伝える。船が進むにつれて美しい自然と古い歴史をもった市街のパノラマが目の前に押し広げられるのである。子供の時分から色刷り石版画や地理書のさし絵で見慣れていて、そして東洋の日本の片田舎《かたいなか》に育った子供の自分が、好奇心にみちた憧憬《どうけい》の対象として、西洋というものを想像するときにいつも思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアスが、今その現実の姿をついそこにまのあたり現わしていた。しかし思っていたほどの煙は吐いていなかった。同様に絵で見なれたイタリア松の笠《かさ》をかむったようなのが丘の上などに並んでいるのもなつかしかった。
検疫がすんで桟橋《さんばし》へつくと、案内者がやって来てしきりにポンペイ見物をすすめた。年取ったふとった案内者の顔はどこかフランスの大統領に似ていたが、着ている背広はみすぼらしいものであった。T氏とハース氏とドイツ大尉夫妻と自分と合わせて五人の組を作ってこの老人の厄介《やっかい》になることにした。無蓋《むがい》の馬車にぎし詰めに詰め込まれてナポリの町をめぐり歩いた。
とある寺院へはいって見た。古びたモザイックや壁画はどうしても今の世のものではなかった。金光|燦爛《さんらん》たる祭壇の蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》も数世紀前の光であった。壁に沿うて交番小屋のようなものがいくつかあった、その中に隠れた僧侶《そうりょ》が、格子越《こうしご》しに訴える信者の懺悔《ざんげ》を聞いていた。それはおもに若い女であった。ここでも罪を犯したもののほうが善人で、高徳な僧侶のほうが悪人であった。なんとなくこういう僧侶に対する反感のこみ上げて来るのをどうする事もできなかった。尼僧の面会窓がある。さながら牢屋《ろうや》を思わせるような厳重な鉄の格子には、剛《かた》く冷たくとがった釘《くぎ》が植えてあった。この格子の内は、どうしても中世紀の世界であるような気がした。
ここを出て馬車は狭い勾配《こうばい》の急な坂町の石道をガタガタ揺れながら駆けて行った。ハース氏はベデカを片手に一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を保っているかのように多くは黙っていた。T氏と自分もそれぞれの思いにふけっておし黙っていた。その――土地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわれ一組の観客の前を、美しくよごれた南欧の町の光景がただあわただしく走り過ぎて行った。
停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとから見上げると海上から見たほど高くは見えなかった。熔岩《ようがん》が海中へ流れ込んだ跡も通って行った。シャボテンやみかんのような木も見られた。粗末な泥土塗《どろつちぬ》りの田舎家《いなかや》もイタリアと思えばおもしろかった。古風な木造の歯車のついた粉ひき車がそのような家の庭にころがっているのも珍しかった。青い海のかなたにソレントがかすんで、絵のような小船が帆をたたんで岸に群れているのも、みんなそれがイタリアであった。……トルレ・デル・アヌンチアタで汽車をおりた。アンデルセンの『即興詩人』を読んだ時に頭に刻まれていたいろいろの場面が、この駅の名の響きに応じて強く新しくよみがえって来るのであった。
馬車が古い昔の町を通り抜けると馬鈴薯畑《ばれいしょばたけ》の中の大道を走って行った。ところどころに孤立したイタリア松と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであった。
ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた旗亭《きてい》が見える。もうそこがポンペイの入り口である。入場料を払って関門を入ると、そこは二千余年前の文化の化石で、見渡す限りただ灰白色をした低い建物の死骸《しがい》である。この荒涼な墓場の背景には、美しい円錐火山《えんすいかざん》が、優雅な曲線を空に画してそびえていた。空に切れ切れな綿雲の影が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしていた。過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるのであった。しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らないような平和な姿をして、頂上にただあるかなしの白い煙を漂わせているだけであった。
狭い町は石畳になって、それに車の轍《わだち》が深い溝《みぞ》をなして刻みつけられてあった。車道が人道に接する所には、水道の鉛管がはみ出していた。それが青白くされ※[#「金+嘯のつくり」、第3水準1−93−39]《さ》びて、あがった鰻《うなぎ》を思わせるような無気味な肌《はだ》をさらしてうねっていた。
富豪の邸宅の跡には美しい壁画が立派に保存されていた。それには狩猟や魚族を主題としたものもあった。大きな浴場の跡もあった。たぶん温度を保つためであろう、壁が二重になっていた。脱衣棚《だついだな》が日本の洗湯《せんとう》のそれと似ているのもおもしろかった。風呂《ふろ》にはいっては長椅子《ながいす》に寝そべって、うまい物を食っては空談にふけって、そしてうとうとと昼寝《シエスタ》をむさぼっていた肉欲的な昔の人の生活を思い浮かべないわけにはゆかなかった。
劇場《テアトロ》の中のまるい広場には、緑の草の毛氈《もうせん》の中に真紅の虞美人草《ぐびじんそう》が咲き乱れて、かよわい花弁がわずかな風にふるえていた。よく見ると鳥頭《とりかぶと》の紫の花もぽつぽつ交じって咲いていた。この死滅した昔の栄華と歓楽の殿堂の跡にこんなかよわいものが生き残っていた、石や煉瓦《れんが》はぽろぽろになっているのに。
酒屋の店の跡も保存されてあった。パン屋の竈《かまど》の跡や、粉をこねた臼《うす》のようなものもころがっていた。娼家《しょうか》の入り口の軒には大きな石の
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