と聞いたらスペインへと言う、スペイン人かと聞くとそうだといった。
 全部白服に着かえる。
四月九日
 ハース氏と国歌の事を話していたら、同氏が「君が代」を訳したのがあると言って日記へ書き付けてくれた、そしてさびたような低い声で、しかし正しい旋律で歌って聞かせた。
 きのうのスペインの少女の名はコンセプシオというのだそうな。自分ではコンチャといっている。首飾りに聖母の像のついたメダルを三つも下げている。
 昼ごろサイゴンの沖を通る。
四月十日
 朝十時の奏楽のときに西村《にしむら》氏がそばへ来て楽隊のスケッチをしていた。ボーイがリモナーデを持って来たのを寝台の肱掛《ひじか》けの穴へはめようとしたら、穴が大きすぎたのでコップがすべり落ちて割れた。そばにいた人々はだれも知らん顔をしていた。かえってきまりが悪かった。
 午後には海が純粋なコバルト色になった。
四月十一日
 きょうは復活祭《オステルン》だという。朝飯の食卓には朱と緑とに染めつけたゆで玉子に蝋細工《ろうざいく》の兎《うさぎ》を添えたのが出る。米国人のおばあさんは蝋《ろう》とは知らずかじってみて変な顔をした。ハース氏に聞いてみると、これは純粋なドイツの古習で、もとはある女神のためにささげた供物だそうな。今日では色つけ玉子を草の中へかくして子供に捜させる、そしてこの玉子は兎《うさぎ》が来て置いて行ったのだと教えるという。
 朝飯が終わったころはもうシンガポール間近に来ていた、そして強い驟雨《しゅうう》が襲って来た。海の色は暗緑で陸近いほうは美しい浅緑色を示していた。みごとな虹《にじ》が立ってその下の海面が強く黄色に光って見えた。右舷《うげん》の島の上には大きな竜巻《たつまき》の雲のようなものがたれ下がっていた。ミラージュも見えた。すべてのものに強い強い熱国の光彩が輝いているのであった。
 船はタンジョンパガールの埠頭《ふとう》に横づけになる。右舷に見える懸崖《けんがい》がまっかな紅殻色《べんがらいろ》をしていて、それが強い緑の樹木と対照してあざやかに美しい。
 西村氏が案内をしてくれるというのでいっしょに出かける。祭日で店も大概しまっており郵便局も休んでいる。つり橋のたもとの煙草屋《たばこや》を見つけて絵はがきと切手を買う。三銭切手二十枚を七十五銭に売るから妙だと思って聞くと「コンミッシォン」だと言った。
 九竜《くりゅう》で見たと同じ道普請のローラーで花崗石《みかげいし》のくずをならしている。その前を赤い腰巻きをしたインド人が赤旗を持ってのろのろ歩いていた。
 エスプラネードを歩く。まっ黒な人間が派手な色の布を頭と腰に巻いて歩いているのが、ここの自然界とよく調和していると思って感心した。
 宝石屋の前を通ると、はいって見ろと無埋にすすめる。見るだけでいいからはいれという。自分の持っている蝙蝠傘《こうもりがさ》をほめて、売ってくれと言う。売るのがいやなら宝石と換えぬかという。T氏の傘を見て This no good. というと、また一人が This good, but that the best. と訂正した。
 いわゆる日本街を人力車で行った。道路にのぞんだヴェランダに更紗《さらさ》の寝巻のようなものを着た色の黒い女の物すごい笑顔《えがお》が見えた、と思う間に通り過ぎてしまう。
 オテルドリューロプで昼食をくう。薬味のさまざまに多いライスカレーをくって氷で冷やしたみかん水をのんで、かすかな電扇のうなり声を聞きながら、白服ばかりの男女の外国人の客を見渡していると、頭の中がぼうとして来て、真夏の昼寝の夢のような気がした。
 植物園へはいる。芝生《しばふ》の上に遊んでいた栗鼠《りす》はわれわれが近よるとそばの木にかけ上った。木の間にはきれいな鳥も見かける。ねむの花のような緋色《ひいろ》の花の満開したのや、仏桑花《ぶっそうげ》の大木や、扇を広げたような椰子《やし》の一種もある。背の高いインド人の巡査がいて道ばたの木の実を指さし「猿《さる》が食います」と言った。人糞《じんぷん》の臭気があるというドリアンの木もある。巡査は手を鼻へやってかぐまねをしてそして手をふって「ノー・グード」と言い、今度は食うまねをして「ツー・イート・グード」と言う。動物はいないかと聞いたら「虎《とら》と尾長猿《おながざる》、おしまい、finished」といった。たぶん死んだとでもいう事だろうと思った。
 水道の貯水池の所は眺望《ちょうぼう》がいい。暑そうな霞《かすみ》の奥に見える土地がジョホールだという。大きな枝を張った木陰のベンチに人相の悪い雑種のマライ人が三人何かコソコソ話し合っていた。
 市場へ行く。玉ねぎや馬鈴薯《ばれいしょ》に交じって椰子の実やじゃぼん、それから獣肉も干し魚もある。八百屋《やおや》がバイオリンを鳴らしている。菓汁《かじゅう》の飲料を売る水屋の小僧もあき罐《かん》をたたいて踊りながら客を呼ぶ。
 船へ帰るとやっぱり宅《うち》へ帰ったような気がする。夕飯には小羊の乗った復活祭のお菓子が出る。夜は荷積みで騒がしい。
四月十二日
 朝から汗が流れる。桟橋《さんばし》にはいろいろの物売りが出ている。籐《とう》のステッキ、更紗《さらさ》、貝がら、貝細工、菊形の珊瑚礁《さんごしょう》、鸚鵡《おうむ》貝など。
 出帆が近くなると甲板は乗客と見送りでいっぱいになった。けさ乗り込んだ二等客の子供だけが四十二人あるとハース氏が言う。神戸《こうべ》で乗った時は全体で九人であったのに。
 マライ人がカノーのようなものに乗って、わが船のそばへ群がって来て口々にわめく。乗客が銭を投げると争ってもぐって拾い上げる。I say ! Herr Meister ! Far away, far away ! One dollar, all dive ! などと言っているらしい。自分はどうしても銭をなげる気になれなかった。
 船が出る時|桟橋《さんばし》に立った見送りの一組が「オールド・ラング・サイン」を歌った。船の上でも下でも雪白の服を着た人の群れがまっ白なハンケチをふりかわした。
[#地から3字上げ](大正九年八月、渋柿)

     四 ペナンとコロンボ

四月十三日
 ……馬車を雇うて植物園へ行く途中で寺院のような所へはいって見た。祭壇の前には鉄の孔雀《くじゃく》がある。参詣者《さんけいしゃ》はその背中に突き出た瘤《こぶ》のようなものの上で椰子《やし》の殻《から》を割って、その白い粉を額へ塗るのだそうな。どういう意味でそうするのか聞いてもよくわからなかった。まっ黒な鉄の鳥の背中は油を浴びたように光っていた。壇に向かった回廊の二階に大きな張りぬきの異形な人形があって、土人の子供がそれをかぶって踊って見せた。堂のすみにしゃがんでいる年とった土人に、「ここに祭ってあるゴッドの名はなんというか」と聞いたら上目に自分の顔をにらむようにしてただ一言「スプロマニーン」と答えた――ようであった。しかしこれは自分の問いに答えたのか、別の事を言ったのだかよくわからなかった。ただこの尻上《しりあ》がりに発音した奇妙な言葉が強く耳の底に刻みつけられた。こんな些細《ささい》な事でも自分の異国的情調を高めるに充分であった。
 立派なシナ商人の邸宅が土人の茅屋《ぼうおく》と対照して何事かを思わせる。
 椰子《やし》の林に野羊が遊んでいる所もあった。笹《ささ》の垣根《かきね》が至るところにあって故国を思わせる。道路はシンガポールの紅殻色《べんがらいろ》と違ってまっ白な花崗砂《かこうしゃ》である。
 植物園には柏《かしわ》のような大木があったり、いったいにどこやら日本の大庭園に似ていた。
 夜船へ帰って、甲板でリモナーデを飲みながら桟橋《さんばし》を見ていると、そこに立っているアーク燈が妙なチラチラした青い光と煙を出している。それが急にパッと消えると同時に外のアーク燈も皆一度に消えてまっ暗になった。船の陰に横付けになって、清水を積んだ小船が三|艘《そう》、ポンプで本船へくみ込んでいた。その小船に小さな小さなねこ――ねずみぐらいなねこが一匹いた。海面には赤く光るくらげが二つ三つ浮いていた。
 ハース氏夫妻と話していると近くの時計台の鐘がおもしろいメロディーを打つ。あれはロンドンの議事堂の時計を模しているのだとハース氏がいう。西欧の寺院の鐘声というものに関するあらゆる連想が雑然と頭の中に群がって来た。
 きのうの夕食に出たミカドアイスクリームというのは少し日本人の気持ちを悪くさせる性質のものではないかとハース氏に言ったら、「そんな事はない、それより毒滅という薬の広告のほうがはるかにドイツ人にわるく当たる」と言って笑った。
四月十四日
 夜甲板の椅子《いす》によりかかってマンドリンを忍び音に鳴らしている女があった。下の食堂では独唱会があった。
四月十五日
 自分らの隣の椅子へ子供づれの夫婦が来た。母親がどこかへ行ってしまうと、子供はマーンマーマーンマーと泣き声を出す。父親が子守《こも》り歌のようなものを歌ったり、口笛を吹いたりしても効能がない。
四月十六日
 喫煙室で乗客の会議が開かれた。一般の娯楽のために競技や音楽会をやる相談である。
四月十七日
 きのう紛失したせんたく袋がもどって来た。室のボーイの話ではせんたく屋のシナ人が持っていたのだそうな。
四月十八日
 顔を洗って甲板へ出たらコロンボへ着いていた。T氏と西村氏と三人で案内者を雇うて馬車で見物に出かけた。市場でマンゴスチーンを買っていたら、子供がおおぜいよって来て銭をねだり、馬車を追っかけて来たがとうとう何もやらなかった。埠頭《ふとう》から七マイルの仏寺へ向かう。途中の沼地に草が茂って水牛が遊んでいたり、川べりにボートを造っている小屋があったり、みんなおもしろい画題になるのであった。土人の女がハイカラな洋装をしてカトリックの教会からゾロゾロ出て来るのに会った。
 寺へ着くと子供が蓮《はす》の花を持って来て鼻の先につきつけるようにして買え買えとすすめる。貝多羅《ばいたら》に彫った経をすすめる老人もある。ここの案内をした老年の土人は病気で熱があるとかいってヨロヨロしていたが菩提樹《ぼだいじゅ》の葉を採ってみんなに一枚ずつ分けてくれた。カンジーにあるという仏足や仏歯の模造がある。本堂のような所にはアラバスターの仏像や、大きな花崗石《みかげいし》を彫って黄金を塗りつけた涅槃像《ねはんぞう》がある。T氏はこれに花を供えて拝していた。
 帰途に案内者のハリーがいろいろの人の推薦状を見せて自慢したりした。N氏の英語はうまいがT氏のはノーグードだなどと批評した。年を聞くと四十五だという。われわれは先祖代々の宗教を守っているのに、土人の中には少し金ができるとすぐイギリス人のまねをして耶蘇信者《やそしんじゃ》になるのがある、あれはいけない、どの宗教でもつまり中身は同じで、悪い事をすな、ズーグードと言うだけの事だ、などと一人で論じていた。ヴィクトリアパークの前のレストランでラムネを飲んでいたら、給仕の土人が貝多羅《ばいたら》の葉で作った大きな団扇《うちわ》でそばからあおいだ。馬丁にも一杯飲ませてやったら、亭前《ていぜん》の花園の黄色い花を一輪ずつとってくれた。N氏がそれを襟《えり》のボタン穴にさしたからT氏と自分もそのとおりにした。馬丁はうれしそうにニコニコしていた。
[#地から3字上げ](大正九年九月、渋柿)

     五 アラビア海から紅海へ

四月二十日
 昨夜九時ごろにラカジーブ島の燈台を右舷《うげん》に見た。これからアデンまで四五日はもう陸地を見ないだろうと思うと、心細いよりはむしろゆっくり落ちついたような心持ちがした。朝食後甲板で読書していたら眠くなったので室へおりて寝ようとすると、食堂でだれかがソプラノでのべつに唱歌をやっている。芸人だとかいうオランダ人の一行らしい。この声が耳についてなかなか寝られなかった。それで昼食後に少し寝たいと思うと、今度はまたテノルの唱歌で睡眠を妨げられた。
 
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