いよドイツへはいるのである。やっと目ざす国の国境をはいった心持ちには、長い旅から故郷に帰った時のそれに似たものがあった。フォスゲンやシュワルツワルドを遠くに見て、ライン地方の低地を過ぎて行くのである。至るところの緑野にポプラや楊《やなぎ》の並み木がある。日が暮れかかって、平野の果てに入りかかった夕陽は遠い村の寺塔を空に浮き出させた。さびしい野道を牛車に牧草を積んだ農夫がただ一人ゆるゆる家路へ帰って行くのを見たときにはちょっと軽い郷愁を誘われた。カールスルーエからはもうすっかり暗くなって、月明かりはあったが景色は見えなかった。科学を誇る国だけに鉄路はなめらかで、汽車の動揺や振動は少ない。ただ大風のような音を立てて夜のラインランドを下って行った。フランクフルトで十時になった。Rrrreisekissen ! Die Decken ! と呼びあるく売り子の声が広大な停車場の穹状《きゅうじょう》の屋根に響いて反射していた。そのrの喉音《こうおん》や語尾の自然な音韻が紛れもないドイツの生粋《きっすい》の気分を旅客の耳に吹き込むものであった。パンとゆで玉子を買って食う。ここでおおぜい乗り込んだ人々
前へ
次へ
全54ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング