四月二十九日
 昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなかった。……際限もなく広い浅い泥沼《どろぬま》のような所に紅鶴《フラミンゴー》の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の間にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった。
 神戸《こうべ》からずっといっしょであった米国の老嬢二人も、コンチャーの家族も、いよいよここで下船して、ジェルサレムへ、エジプトへ、思い思いに別れて行くのであった。老嬢の一人はねんごろに手を握って「またいつか日本で会いましょう」などと言った。
「お早う、今日は」と日本語で呼びかけるものがある。見ると、若いスマートなトルコ人の煙草売《たばこう》りであった。横浜にいたことがあるとか言って、お定まりらしいお世辞を言ったりした。結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。
 音楽が水の上から聞こえて来る。舷側《げんそく》から見おろすと一|隻《せき》のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなもの
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