午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろいろの電球をズックの天井の下につるし並べてイルミネーションをやる。一等室のほうからも燕尾服《えんびふく》の連中がだんだんにやってくる。女も美しい軽羅《けいら》を着てベンチへ居並ぶ。デッキへは蝋《ろう》かなにかの粉がふりまかれる。楽隊も出て来てハッチの上に陣取った。時刻が来ると三々五々踊り始めた。少し風があるのでスカーフを頬《ほお》かぶりにしている女もある。四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議に思って見守るのであった。横浜《よこはま》から乗って来た英人のCがオランダの女優のいちばん若く美しいのと踊っていた。なんとなく不格好に、しかし非常に熱心に踊っているのがおかしいようでもあったが、ハイカラでうまく踊る他の多くのダンディよりこのほうが自分にはいい気持ちを与えた。舞踏というものは始めて見たが、なるほどセンシュアルな暗示に富んだものである。これを引き
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