去ったらあとには何物が残るだろうと思ったりした。
反対の側のデッキには、舞踏などまるで問題にしないで談笑している一組もあった。
四月二十二日
夜九時から甲板で音楽会をやった。一人前五十ペンスずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだという。
英国人で五十歳ぐらいの背の高い肥《ふと》ったそしてあまり品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると、その歌はだれでも知っているのだと見えて聴衆がみんないっしょに歌い出してせっかくの独唱《ソロ》はさんざんに押しつぶされてしまった。おかしくもあったが気の毒でもあった。なんだかドイツ人の群集の中で英国人のある特性そのものが嘲笑《ちょうしょう》の目的物になっているような気がした。そしてその特性は自分もあまり好かないものであるのにかかわらず、この時はなんだか聴衆の悪じゃれを不愉快に感じた。それでもやっぱりおかしい事はおかしかった。ブラムフィールドという名前がこの人とこの小事件とになんとなく調和していると思った。
自分の室付きのボーイの兄のマクスが皆から無理にすすめられて演奏台に立った。美しいテノルで歌い出すと、今まで謙遜《けんそん》であった彼
前へ
次へ
全54ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング