に充分であった。
 立派なシナ商人の邸宅が土人の茅屋《ぼうおく》と対照して何事かを思わせる。
 椰子《やし》の林に野羊が遊んでいる所もあった。笹《ささ》の垣根《かきね》が至るところにあって故国を思わせる。道路はシンガポールの紅殻色《べんがらいろ》と違ってまっ白な花崗砂《かこうしゃ》である。
 植物園には柏《かしわ》のような大木があったり、いったいにどこやら日本の大庭園に似ていた。
 夜船へ帰って、甲板でリモナーデを飲みながら桟橋《さんばし》を見ていると、そこに立っているアーク燈が妙なチラチラした青い光と煙を出している。それが急にパッと消えると同時に外のアーク燈も皆一度に消えてまっ暗になった。船の陰に横付けになって、清水を積んだ小船が三|艘《そう》、ポンプで本船へくみ込んでいた。その小船に小さな小さなねこ――ねずみぐらいなねこが一匹いた。海面には赤く光るくらげが二つ三つ浮いていた。
 ハース氏夫妻と話していると近くの時計台の鐘がおもしろいメロディーを打つ。あれはロンドンの議事堂の時計を模しているのだとハース氏がいう。西欧の寺院の鐘声というものに関するあらゆる連想が雑然と頭の中に群がって来た。
 きのうの夕食に出たミカドアイスクリームというのは少し日本人の気持ちを悪くさせる性質のものではないかとハース氏に言ったら、「そんな事はない、それより毒滅という薬の広告のほうがはるかにドイツ人にわるく当たる」と言って笑った。
四月十四日
 夜甲板の椅子《いす》によりかかってマンドリンを忍び音に鳴らしている女があった。下の食堂では独唱会があった。
四月十五日
 自分らの隣の椅子へ子供づれの夫婦が来た。母親がどこかへ行ってしまうと、子供はマーンマーマーンマーと泣き声を出す。父親が子守《こも》り歌のようなものを歌ったり、口笛を吹いたりしても効能がない。
四月十六日
 喫煙室で乗客の会議が開かれた。一般の娯楽のために競技や音楽会をやる相談である。
四月十七日
 きのう紛失したせんたく袋がもどって来た。室のボーイの話ではせんたく屋のシナ人が持っていたのだそうな。
四月十八日
 顔を洗って甲板へ出たらコロンボへ着いていた。T氏と西村氏と三人で案内者を雇うて馬車で見物に出かけた。市場でマンゴスチーンを買っていたら、子供がおおぜいよって来て銭をねだり、馬車を追っかけて来たがとうとう何もやらなかった。埠頭《ふとう》から七マイルの仏寺へ向かう。途中の沼地に草が茂って水牛が遊んでいたり、川べりにボートを造っている小屋があったり、みんなおもしろい画題になるのであった。土人の女がハイカラな洋装をしてカトリックの教会からゾロゾロ出て来るのに会った。
 寺へ着くと子供が蓮《はす》の花を持って来て鼻の先につきつけるようにして買え買えとすすめる。貝多羅《ばいたら》に彫った経をすすめる老人もある。ここの案内をした老年の土人は病気で熱があるとかいってヨロヨロしていたが菩提樹《ぼだいじゅ》の葉を採ってみんなに一枚ずつ分けてくれた。カンジーにあるという仏足や仏歯の模造がある。本堂のような所にはアラバスターの仏像や、大きな花崗石《みかげいし》を彫って黄金を塗りつけた涅槃像《ねはんぞう》がある。T氏はこれに花を供えて拝していた。
 帰途に案内者のハリーがいろいろの人の推薦状を見せて自慢したりした。N氏の英語はうまいがT氏のはノーグードだなどと批評した。年を聞くと四十五だという。われわれは先祖代々の宗教を守っているのに、土人の中には少し金ができるとすぐイギリス人のまねをして耶蘇信者《やそしんじゃ》になるのがある、あれはいけない、どの宗教でもつまり中身は同じで、悪い事をすな、ズーグードと言うだけの事だ、などと一人で論じていた。ヴィクトリアパークの前のレストランでラムネを飲んでいたら、給仕の土人が貝多羅《ばいたら》の葉で作った大きな団扇《うちわ》でそばからあおいだ。馬丁にも一杯飲ませてやったら、亭前《ていぜん》の花園の黄色い花を一輪ずつとってくれた。N氏がそれを襟《えり》のボタン穴にさしたからT氏と自分もそのとおりにした。馬丁はうれしそうにニコニコしていた。
[#地から3字上げ](大正九年九月、渋柿)

     五 アラビア海から紅海へ

四月二十日
 昨夜九時ごろにラカジーブ島の燈台を右舷《うげん》に見た。これからアデンまで四五日はもう陸地を見ないだろうと思うと、心細いよりはむしろゆっくり落ちついたような心持ちがした。朝食後甲板で読書していたら眠くなったので室へおりて寝ようとすると、食堂でだれかがソプラノでのべつに唱歌をやっている。芸人だとかいうオランダ人の一行らしい。この声が耳についてなかなか寝られなかった。それで昼食後に少し寝たいと思うと、今度はまたテノルの唱歌で睡眠を妨げられた。
 
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