とは別人のように、燃えるような目を輝かせ肩をそびやかして勇ましい一曲を歌った。聴衆は盛んな拍手をあびせかけて幾度か彼を壇上に呼び上げた。
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(この時から一年余り後にハンブルヒである大きいカフェーにはいったら、そこのオーケストラの中でバイオリンをひいているマクスを見いだした。声をかけたいと思ったがおおぜいの客の眼前に気がひけてついそのまま別れてしまった。彼の顔はなんだか少しやつれていたような気がした。)
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四月二十三日
朝食後に出て見ると左舷《さげん》に白く光った陸地が見える。ちょっと見ると雪ででもおおわれているようであるが、無論雪ではなくて白い砂か土だろう。珍しい景色である。なんだかわれわれの「この世」とは別の世界の一角を望むような心持ちがする。「陸地の幽霊」とでもいいたいような気がする。Weird という英語のほかに適当な形容詞は思いつかなかった。……あれがソコトラの島だろうと言っていた。
朝九時アデンに着いた。この半島も向かいの小島もゴシック建築のようにとがり立った岩山である。草一本の緑も見えないようである。やや平坦《へいたん》なほうの内地は一面に暑そうな靄《もや》のようなものが立ちこめて、その奥に波のように起伏した砂漠《さばく》があるらしい。この気味のわるい靄《もや》の中からいろいろの奇怪な伝説が生まれたのだろう。
土人がいろいろの物を売りに来る。駝鳥《だちょう》の卵や羽毛、羽扇、藁細工《わらざいく》のかご、貝や珊瑚《さんご》の首飾り、かもしかの角《つの》、鱶《ふか》の顎骨《がくこつ》などで、いずれも相当に高い値段である。
船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる。その腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでいる。あれがパイロットフィッシュだとだれかが教える。オランダ人で伝法肌《デスペラド》といったような男がシェンケから大きな釣《つ》り針《ばり》を借りて来てこれに肉片をさし、親指ほどの麻繩《あさなわ》のさきに結びつけ、浮標にはライフブイを縛りつけて舷側《げんそく》から投げ込んだ。鱶《ふか》はつい近くまで来てもいっこう気がつかないようなふうでゆうゆうと泳いで行く。
自分と並んで見ていた男が、けさ早く鯨の潮を吹いているのに会ったと話していた。鱶《ふか》はいつまでも釣れそうにはなかった。
土人が二人、
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