、一ふしが終わると、しばらく黙ってまたゆるやかに歌い出す、これを聞いているとなんだか胸をおさえられるようで急にねえさんの宅《うち》へ帰りたくなったから一人で帰った。帰って見るともうそろそろ客が来始めて、例のうるさいお辞儀が始まっている。さっきから頭が重いようで、気が落ち付かぬようで人に話しかけられるのがいやであったから、ひとりで蔵の間へはいって八犬伝を見たが、すぐいやになる。鯉《こい》でも見ようと思って池の間へ行って見た。縁側の柱へ頭をもたせてぼんやり立つ。水かさのました稲田から流れ込んだ浮き草が、ゆるやかに回りながら、水の面へ雨のしずくがかいては消し、かいては消す小さい紋といっしょに流れて行く。鯉は片すみの岩組みの陰に仲よく集まったまま静かに鰭《ひれ》を動かしている。竜舌蘭《りゅうぜつらん》の厚いとげのある葉がぬれ色に光って立っている。中二階の池に臨んだ丸窓には、昨夜の清香のさびしい顔が見える。窓の縁に頬杖《ほおづえ》をついたまま、何やら物思わしそうに薄墨色の空のかなたを見つめている。こめかみに貼《は》った頭痛膏《づつうこう》にかかるおくれ毛をなでつけながら、自分のほうを向いたが、軽
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