くうなずいて片頬《かたほお》で笑った。
 夕方母上は、あんまり内をあけてはというので、姉上の止めるのにかかわらず帰る事になった。「お前も帰りましょうね」と聞かれた時、帰るのがなんだかなごり惜しいような気もして「ウン」と鼻の中で曖昧《あいまい》な返事をする。ねえさんが「この子はいいでしょう。ねえ、お前もう一晩泊まっておいで」とすすめる。これにも「ウン」と鼻で返事する。「泊まるのはいいがねえさんに世話をおかけでないよ」と言っていよいよ一人で帰るしたくをせられる。立て場まで迎えにやった車が来たのでねえさんと門まで送って出た。車が柳の番所の辻《つじ》を曲がって見えなくなった時急に心細くなって、いっしょに帰ればよかったと思う。「さあおいで」とねえさんは引っ立てるように内へはいる。
 頭のぐあいがいよいよ悪くなって心細い。母上といっしょに帰ればよかったと心で繰り返す。けむる霧雨の田んぼ道をゆられて行く幌車《ほろぐるま》の後ろ影を追うような気がして、なつかしいわが家の門の柳が胸にゆらぐ。騒々しい、殺風景な酒宴になんの心残りがあって帰りそこなったのか。帰りたい、今からでも帰りたいと便所の口の縁へ立ったまま南天《なんてん》の枝にかかっている紙のてるてる坊さんに祈るように思う。雨の日の黄昏《たそがれ》は知らぬまに忍び足で軒に迫ってはや灯《ひ》ともしごろのわびしい時刻になる。家の内はだんだんにぎやかになる。はしゃいだ笑声などが頭に響いてわびしさを増すばかりである。
 姉上に、少し心持ちが悪いからと、言いにくかったのをやっと言って早く床を取ってもらって寝た。萌黄地《もえぎじ》に肉色で大きく鶴《つる》の丸《まる》を染め抜いた更紗蒲団《さらさぶとん》が今も心に残っている。頭がさえて眠られそうもない。天井につるした金銀色の蠅除《はえよ》け玉に写った小さい自分の寝姿を見ていると、妙に気が遠くなるようで、からだがだんだん落ちて行くようななんとも知れず心細い気がする。母上はもううちへ帰りついて奥の仏壇の前で何かしていられるかと思うとわけもなく悲しくなる。ねえさんのうちがにぎやかなのに比べてわが家のさびしさが身にしむ。いろんな事を考えて夜着の領《えり》をかんでいると、涙が目じりからこめかみを伝うて枕《まくら》にしみ入る。座敷では「夜の雨」をうたうのが聞こえる。池の竜舌蘭《りゅうぜつらん》が目に浮かぶと、
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