ケッチであつたが、普通の油画とは余程変つた色彩と描法とが眼についた。先生の説明によると、それは絵具を解くのに石油を使つて、画布も特別なものを用ゐるといふことであつた。今考へるとアブソルバンのことであつたらしい。黒田画伯と蓑田先生とは同県で旧知の間柄であつたのである。此の一枚の油画にしても先生の身辺を繞る一種特別な雰囲気を色づけるに有力なものであつた。当時先生から話された具体的の事柄は大抵忘れてしまつた。恐らく多くは六ヶし過ぎて当時の田舎の中学生には理解出来ないやうな事が多かつたかも知れない。併し先生の元気な話を聞く事が自分には愉快であつた。何よりも愉快なのは、それ迄は唯一色のみにしか見えなかつた世の中が、思ひもかけなかつた色々の光で照らし出されることが可能であるといふ啓示《アポカリプス》であつた。
自分等が中学校を出て、九州の高等学校へ行つて居る留守に蓑田先生はK市の中学を去つてしまつた。校長と喧嘩をした為といふ噂もあつた。去るに臨んで生徒を講堂に集めて旧思想打破の大演説をやつて職員一同色を失つたといふたよりも聞いた。其の演説を評して「六尺の音叉一時に振ふが如し」と手紙に書いて来た友人もあつた。其後の先生の消息に就いては、しばらく何事も知らないで数年を過ぎた。大学二年の夏休みに逗子へ遊びに行つて、夕方養神亭の裏の海岸を歩いて涼風に吹かれて居た時、とある別荘らしい家の門前で思ひもかけず出遭つたのが蓑田先生で、その別荘が即ち先生の別荘であつた。先生の方でも未だ自分の顔と名前を覚えて居てくれた。さうして久し振で昔に変らず元気で愉快な話を聞いた。一寸東京へ帰つて居たいから今夜一晩此処へ泊つて留守番をしないかといふことになつて、計らず先生の別荘に一夜を過ごした、さうして縁側の籐椅子に凭れて海を見ながら先生の葉巻を吹かし、風月のボン/\をかじり、生れて始めての綺麗な羽根蒲団で寝た。食事も養神亭から女中が運んでくれた、雨戸の開閉もやつて貰つて、留守番とはいひながら天晴れ一夜の別荘生活をしたのであつた。
帰京後一度麹町区一番町の邸に先生を訪ねた。郷里の田地を売つて建てたといふ洋館の応接間に通されて、此処でも生れて始めての工合のいゝ安楽椅子に坐らされた。此頃ソーシオロジーを研究して居ると云つて色々の書物を見せられた。どういふ話のつゞきであつたか忘れたが「兎に角君は、人間何も別にえ
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