かくていい気持になってほとんど何も考えないでウトウトしていたが眠られはしなかった。寒くはないかと皆が聞いたが寒いとも暑いともそういう感じはどこかへ逃げ去ってしまって、ただ静寂なそして幽遠なような感じが全身を領して三時の来るのが別に待遠しく思われなかった。
 寝台車に自分をのせる方法について色々の議論があるように聞えた。いよいよ寝台が来た、同時に職工や小使《こづかい》がドヤドヤ室内に入って来た。室の真中にある分析台の上に置いた品物がどこかへ片付けられた。自身は毛布を敷いたままで寝台に移されそれから寝台が大勢の手でかき上げられた。職工の中に吉江教授が交じって寝台に手をかけておられるのも目にはいった。室外の廊下に出て見ると高木さんや中川さんの顔も見えた。みんな外の方を向いて自分の顔を見ないように勉《つと》めているらしく思われた。ここで幌《ほろ》を着せられたから自分の眼界はただ方幾寸くらいのセルロイドの窓にかぎられてしまった。寝台はまた静かに持ち上げられて廊下をゆられて行った。廊下の曲り角を廻る時にはよくわかった。北の階段を下りる時には何だか少し気分が悪かった。いよいよ玄関を出る時、何となく大
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