勢の人が好奇や同情やいろいろの眼で見送っているような気がした。いよいよ出かける時になって始めて中村先生の声がすぐ側に聞えた、松本君の元気のいい声も聞えた。車がそろそろ動き出すとついて来る人のいろいろの足音が聞え出した。セルロイドの窓から見える空は実に真青で美しかった。高い梢の枯枝が時々この美しい空に浮き出して見えた。車の中は暖かで、身体には何の苦痛もなかった、何のためにこうして送られて行くのかという気もした。自分が死骸になって送られていると想像してみた。病室までの道は予想に反して長くどこをどう通っているのかじきに分らなくなってしまった。ついこの間通りかかった時病室の端にある斜面から寝台車が引き上げられ病室の窓から大勢の人が覗いた時の光景を思いだした。車が止まって寝台がかき上げられた。廊下を通っている時はもう少し静かにやってもらいたいと思った。かついで行く人々は目的地の近付いたために無意識に急いでいるのだと思って黙っていた。幌が取り除かれると同時に狭い入口を通って病室にかき込まれた時いちばんに目についたのは灰色の壁であった。不愉快な灰色の高い壁は上の端で曲面を形作って天井につながっていた
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